蛇笏賞・迢空賞

第59回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第58回迢空賞受賞
『雪の偶然』(現代短歌社刊)
吉川宏志
【受賞者略歴】
吉川宏志(よしかわ ひろし)
1969(昭和44)年、宮崎県生まれ。京都大学文学部卒業。1987年、「塔」入会。1994年、評論「妊娠・出産をめぐる人間関係の変容―男性歌人を中心に」により第12回現代短歌評論賞受賞。1996年、第一歌集『青蟬』にて第40回現代歌人協会賞。2005年、作品「死と塩」(30首)で第41回短歌研究賞。2006年、歌集『海雨』にて第11回寺山修司短歌賞、第7回山本健吉文学賞。2015年1月、永田和宏に代わり「塔」主宰となる。2016年刊の歌集『鳥の見しもの』にて、第21回若山牧水賞、第9回小野市詩歌文学賞受賞。2020年、歌集『石蓮華』にて第70回芸術選奨文部科学大臣賞、第31回斎藤茂吉短歌文学賞。
歌集はほかに、『夜光』『曳舟』『西行の肺』『燕麦』(第11回前川佐美雄賞)など。著書に、『いま、社会詠は』『風景と実感』『読みと他者―短歌時評二〇〇九―二〇一四』など。現代歌人協会理事。京都新聞選者。2023年度「NHK短歌」選者を務めた。

受賞のことば

吉川宏志


 歴史ある輝かしい賞をいただき、とても嬉しく思っております。選考委員の皆様、さまざまな面で支えてくださった方々に、心より御礼申し上げます。
  ゆうぞらを鳥わたりおり「歌ふ」とは「訴ふ」ことと迢空言いき  『雪の偶然』
という一首があります。折口信夫の「国文学の発生(第四稿)」に「うたふはうつたふと同根の語である。」という印象的な一節があり、それを踏まえています。危うさを増してゆく現代社会の中で、自分の内側に閉じこもるのではなく、他者に訴えかける歌の重要性を認識するようになりました。勤めていた会社の中でも、こんな働き方をしていていいのか、と疑うことが多くなっていました。
 しかし、主張が強く出過ぎると、歌の味わいは失われてしまう。雪のように、儚くやわらかなものも歌っていきたい。悩みながらも、夢中で歌を作っていた時期の一冊です。苦しんできた日々を、強く肯定していただいたように感じられ、とてもありがたい受賞でした。この賞の名に恥じぬよう、さらに真摯に短歌の道を歩んでいきたいと思います。

選評(敬称略/50音順)

「『雪の偶然』を推す」佐佐木幸綱


 今年の迢空賞は、吉川宏志『雪の偶然』に決定した。四人の選考委員がそろって推した一冊で、順当な決定だったと思う。
 現代短歌が古典和歌、近代短歌との緊張関係を失ってしまったら、気の利いたツイッターと同じになってしまうだろう。この歌集には短歌が気の利いたツイッターにならないための配慮、工夫がさまざまなされている。
 構成に工夫があり、歌集に収録されている期間の作者の生活の大まかな枠組みが読者にたどれるようになっている。結婚して京都に住んでいる作者夫婦。夫婦には男女二人の子供がいる。二人の子は、この歌集の期間に東京と神奈川県にそれぞれ就職する。夫婦はふたたび二人の生活に戻る。また、教科書関係の会社に就職していた作者は、この歌集の期間に退職する。別居していた母がこの期間に他界する。
   東京に殺されるなよ 東京を知らざる我は息子に言わず
   沖縄でまず使われむ共謀罪 深夜の東京に作られゆきぬ
   もう息は帰ってこないのに口をこんなに大きくあけて、母さん
   道徳を評価する国に我は居て〈よくできました〉の判子を作る
   この窓のなかにいるのも最後にて花山(かざん)天文台遠くに光る
  一首目は、息子が就職して東京に引っ越してゆくのを、父親の立場で歌った一首。父親の心の波立ちが読者にも読めるのは、前述したような事情を読者が了解しているからである。四首目は、学習教材の会社に勤務している作者だから仕事の関係で「よくできました」の印を作ったのだが、そんな背景が無理なく読者にも了解されるよう、配慮がなされている。五首目の作は、退職届を出した日、仕事机などを整理しているときに、仕事場の窓をうたった一首。読者はなんとなく仕事場の空気を想像していたが、この一首でその部屋の輪郭が縁取られた気がして、安心する。
 こうした作者の生活上の太い骨子が読者に伝わった上のことなので、沖縄のこと、ウクライナ戦争をはじめとする社会的事象への作者の関心等が、単なるニュースをうたった歌ではなく、作者の内部をくぐり抜けた思いとして伝わるのである。
  紙が足りぬ、紙が足りぬと叫ぶごと細かき字なり熊楠の字は
  ワイシャツに白く包まれ運ばるるまだ銃弾の残れる身体(からだ)
 前者は和歌山県田辺市の南方熊楠顕彰館に行っての作。後者は安倍晋三銃撃事件の一週間後に、西大寺の現場を訪れての作。前述した背景が歌集に確保されているからこそ、こうしたなまなましい現場の歌を安心して読むことが出来るのである。
 
 吉川宏志の次に、私は、沢口芙美『変若(をち)かへる』を推した。作者の沢口さんは、私が「早稲田短歌会にいたころに、「國學院短歌会」にいた人である。歌集を読み、作者の旺盛な好奇心に感心した。百名山を完登した歌がある。天草のキリシタン資料館をはじめ多くの資料館があり、オーストラリアの岩山ウルルやマチュピチュに行った歌がある。
  赤彦と百穂の友情篤かりき九十年後を帽子行き来す
  日清戦争、日露戦争の軍服見つ小柄なるかな当時の男子
  刀、弓らしきが更に傘がすぎ幕におほはるる何物かがゆく
 三首目は「明治神宮遷御の儀」の歌。内部を見せない幕でおおったものを運ぶ一行がすぎてゆく場面をうたっている。私は二十年に一度の伊勢神宮の遷宮の儀に参席、同じような場面を目撃した。が、私は歌にできなかった。この作者の、果敢に挑戦し、歌をものにした意力に感心した。

 


 

「歌のテーマの幅広さ、表現力の高さ」高野公彦


  今回の迢空賞は、候補になったそれぞれの歌集について熱心な論議が交わされ、その結果、吉川宏志歌集『雪の偶然』に決まった。歌のテーマの幅広さ、表現力の高さ、そしてテーマの掘り下げ方の深さなどが高く評価された、と言えるだろう。
  幼な子が見しものは絵に残されて踊るごとし銃に撃たれたる人
  『野火』のあと字幕が宙を昇りゆくそのほとんどは死者を演じき
  海は何が正義か言わず 岩を吞み岩を吐き出し青暗き海
  一首目は福島県白河市の「アウシュヴィッツ平和博物館」を訪ねての作。大人が虐殺された瞬間の様子をえがいた幼な子の絵を通して、人類の歴史的悲劇を浮かび上がらせる。二首目は、大岡昇平原作の映画『野火』のエンドロールをえがきつつ、戦争の悲劇さを暗示する。三首目は基地問題で揺れ続ける沖縄に行き、沖縄県民のいだく苦悩を風景詠に託して象徴的に表現しているような作だ。社会問題や歴史への関心の深さがこれらの歌に通底している。
  紙が足りぬ、紙が足りぬと叫ぶごと細かき字なり熊楠の字は
  明日あるかなきかのいのち 梨の汁スプーンにのせて母に飲ましむ
  除夜すぎし鐘は朝(あした)の陽を浴びてふくらみており母の亡き町に
  秋の雲低くなりたりウイルスのなき月面がひかりはじめつ
 これらはまた別の魅力を持った歌であり、吉川短歌の多彩さを物語る。一首目は、紀州の南方熊楠急旧居を訪ね、多数の著作を残した熊楠のことをユーモラスにえがいている。二首目・三首目は、母の逝去の前後の様子をリアルにまた抒情的に表現している。三首目は、コロナ禍の地球をユニークな視点でえがき出している。
  二十六年過ぎてしまいぬ大根を擂りつつ二人暮らしにもどる
  退職届を持ちつつ来たる朝十時リモート勤務にて専務はおらず
 家族を詠んだ歌や、勤め先のことを詠んだ歌も、歌集の中におりふし混じっている。一首目は、育て上げた二人の子がそれぞれ自立して家を去ったあとの寂しさや微かな安堵感がにじむ作である。二首目は、退職を決めた日の職場のことを詠み、コロナ禍の只中にあった日本社会のことを仄かに匂わせる。
 卑近なことを詠んだ日常詠から、大きなテーマに取り組んだ社会詠まで、幅広い領域で秀歌を生み出している歌人、それが吉川宏志である。
 最後にあえて一言付け加えるとすれば、吉川短歌は秀歌の率が高いので、むしろもう少し平凡な歌がときおり混じったほうがいいのかもしれない、と思ったことを白状しておこう。もっとも、凡作の率が高くなりすぎると、元も子も無くなるから、やはり現状の儘でいいのだろう。
     *
  長い長い模索の果てに富士の絵と面構(つらがまえ)の絵を球子物にす
  囲碁に遊び短歌に耽(ふけ)る境涯をぞんぶんに生き愉(たの)しむ我は
 奥村晃作歌集『蜘蛛の歌』は、従来の「ただごと歌」の痕跡を残しつつ新しい円熟の歌境を開拓しつつある、と感じた。一首目の「球子」は画家の片岡球子(たまこ)。
  笹の葉さらさらざざのばざらざら地下道を生きのびながるる人間の河
  ぴいとんとん、楽しくてならぬ鳥のごと杼は跳ねてをり糸のあはひを
 川野里子歌集『ウォーターリリー』は、意外に奇想の歌が多くて、作者の詩的才能の閃きに感嘆した。二首目は、宮古島で上布を織る機織(はたお)りの現場の、軽快な杼(ひ)の動きを詠んだ楽しい歌である。
 


 

「より豊かな世界が開かれていく予感」永田和宏


 五冊の候補歌集の一冊一冊について、四人の選考委員が順に意見を述べ、最終的に二冊に絞り込んだところでさらに議論を重ねることになった。私が推していた歌集が、たまたまこの二冊に残った。
 受賞作は全員の一致で吉川宏志歌集『雪の偶然』に決定した。吉川宏志と言えば、
  茂吉像は眼鏡も青銅(ブロンズ)こめかみに溶接されて日溜りのなか  『青蟬』
  カレンダーの隅24/31 分母の日に逢う約束がある
などがすぐに思い浮かぶように、人の気づかない細部を切り取って、世界の凹凸や割れ目の手触りを手渡してくれる作家である。そんな鮮やかな現実の切り取り方に強い印象を持ってきた。
 今回の『雪の偶然』では、それに、平凡ではあっても生活することの温かさと、現実社会に向ける目のリアリティが際立ったものとなってきた。
  国会前うずめつくせる黒点の一つとなりて我が夏は過ぐ
  海は何が正義か言わず 岩を吞み岩を吐き出し青暗き海
 国会前や、沖縄のキャンプ・シュワブに実際に行って、デモや座り込みにも参加し、社会へ向ける目を、ただ外から観察するだけでなく、行動としての意志表明の歌として定着させているのは、近頃の歌人では珍しい。安倍首相の暗殺やアウシュビッツにも視線は向かうが、それらがあまりに詩を意識しすぎた表現になると、危うさも感じさせるものとなる。
  もう息は帰ってこないのに口をこんなに大きくあけて、母さん
  〈一身上の都合〉にすべて収めたり指冷えながら便箋を折る
  コロナ禍に送別会のあらざるがむしろ清(さや)けく花冷えを去る
  東京に殺されるなよ 東京を知らざる我は息子に言わず
 母の死、依願退職、息子の東京への就職など、日常を詠うとき、景の切り取り方への過剰な意識が薄められ、そのあたりに、今後のより豊かな吉川宏志の世界が開けていくような予感を持たせてくれる。
 最後まで議論になったもう一冊は、奥村晃作歌集『蜘蛛の歌』であった。奥村晃作と言えば、
   次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く  『三齢幼虫』
   信号の赤に対ひて自動車は次々止まる前から順に  『鴇色の足』
がすぐに思い浮かぶ。正直に言えば、私はこれまでこの二首を少なくとも百回以上は、さまざまの講演で引用してきた。高校生や学生、歌人以外の聴衆に対しても、世界の認識に張り手を加えるような驚きを持って受け止められるのが常である。
 奥村晃作は、彼にしかない鮮やかな表現手段をもって、現歌壇に唯一無二のユニークな存在感を示してきた。十分に迢空賞に値すると私は思っている。
  考えてみるまでもなく何億のヒト高層の部屋に寝起きす
  昆虫はピンで止めるが草花は小さな紙のテープで止める
 これらはやはり発見の歌であり、これまで気づかなかった世界への目の向け方に快い刺激を感じることができる。〈型〉で世界を認識するのではなく、常にこれは何なのだという問いと共に、奥村の視線は対象に向けられる。そこから人が普段気にも留めない新しい認識が生まれるのである。米寿だというが、これほどに柔軟な視線を持ち続けておられることを羨ましくも思うのである。
〈緻密なる脳の働きを神に謝す碁を打つ時も歌作る時も〉〈向き合って一言も言葉交わすなく交互に黒石白石を置く〉など、碁の歌も面白く、また片岡球子への偏愛なども歌集に濃淡と厚みを与えている。
 私は二冊同時受賞でもいいと思ったが、一冊ということで、全員が同意して決定となった。

 


 

「歌材も手法も楽しい」馬場あき子


 第五十八回の迢空賞には吉川宏志さんの『雪の偶然』が選ばれた。選考者すべてが高い評価を出していたのできびしい論争になることはなかった。『雪の偶然』は第一歌集『青蟬』以来三十年の歳月の重みと、初期にかがやかせた新鮮な視点や批評精神を保ちながら、対象により冷静な距離を置いて詠んでおり熟成感が深い。
  幼な子が見しものは絵に残されて踊るごとし銃に撃たれる人  (Ⅰ)
  紙のうえに細き数字に書かれつつ海を滅ぼすための予算あり 
  電動のベッドに母を浮かせゆき尿(ゆまり)抜き取る音のしており  (Ⅱ)
  明日あるかなきかのいのち 梨の汁スプーンにのせて母に飲ましむ
 歌は四部から成り、区切られた人生のページが記憶に残る。第一首の幼な子の絵はどんなニュースの映像より残酷に被弾した人間の姿をみせ、第二首の痛烈な巨大予算の細字は「海を滅ぼすため」によって、迫られている日本の現実に対して、海に拠ってくらす人々の怒りがみえる。パートⅡでは重篤の母君をリアルな現実とともに詠まれ驚く。中でもかすかな命のために梨の果汁を飲ませるシーンは感銘深い。集中には氏の感性の深いやさしさがみえる歌も多い。
  ボーカルが死にしバンドの残りいるごとき明るさ冬の林は  (Ⅲ)
  文楽の手の伸びゆきて冬の樹のかさなるごとく相擁(あいよう)したり  (Ⅳ)
「ボーカルが死にしバンド」では、特殊な人事風景を比喩として、からんとした明るく寂しい冬林を見せ、文楽人形の抱擁のかたちを、枯林の冬木の温もりと重ね合わせるなど、独特無二の手法と思わせる。歌材も広く手法も多彩だ。ウイルス時代を生きた歌、戦争への悲しみの歌、素材としにくい安倍晋三元総理の死なども詠んでいるのはやはりすごいと思う。
 川野里子の『ウォーターリリー』も受賞歴が多い実力者の歌集である。歌集のIはウォーターリリーを暗喩として、忘れがたいベトナム戦争の惨劇を今に続く諸方の戦争への批判をこめた挽歌としている。Ⅱでは日本のコロナ時代の幕開けとなったダイヤモンドプリンセスを比喩として、日本の現実を嘆く。Ⅲは鶴の折り方の手順の一つ一つに意識的な示唆を加えて、生き苦しい現実を写し出す。そしてⅣはタイタニックの沈むまでの二時間四〇分、ここにも象徴として今日に繫がる現実を見ている。
  あの川に兄が浮かんでこの沼に父が浮かんで睡蓮咲いた  (Ⅰ)  
  見捨つるやうに鷗飛び去り病む船と病みゆく狐島よりそひ残る  (Ⅱ)
  (ていねいにするどく爪で折つてゆく黙らせるための鶴のくちばし)  (Ⅲ)
 しかし、こうした独自の観念から象徴しつつ歌う歌より、作者にはもっと日常や家族を実感をもって詠んだ歌の方が、今日を生きる人間の姿を個性的な魅力とともに伝えられるのではないかと考えられた。
  明けない夜はない のだけれど子の部屋に目覚まし時計三つを拾ふ  (Ⅰ)
  おほいなる嚔(くさめ)して空に穴あけてその空みてをり職退きし夫
 次いで大きな話題となったのは奥村晃作の『蜘蛛の歌』で、私は集中の碁の歌(一~四)までにいたく感銘を受けていた。そのせいではないが、奥村さんの今の心境なども集全体に滲むところがあって、これは何故だろうと思いつつ親しい気分で読んだ。いわば奥村さんはその個性を非凡から普遍へと移しつつあるのかもしれない。
  向き合って一言も言葉を交わすなく交互に黒石白石を置く

 


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