蛇笏賞・迢空賞

第59回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第10回迢空賞受賞
『獨石馬』(白玉書房刊)他
宮 柊二
【受賞者略歴】
宮 柊二(みや しゅうじ)
本名、肇。大正元年8月23日新潟県南魚沼郡堀之内町に生まれる。昭和8年、北原白秋に師事し、昭和10年「多磨」創刊に参加。同年白秋の秘書となり、昭和14年6月、日鉄富士製鉄所に入社、昭和35年まで在社。昭和14年8月応召、華北戦線を転戦し、昭和18年9月帰還した。その間に第1回多磨賞・第1回多磨力作賞を受賞。昭和21年第1歌集『群鶏』を上梓、以後、昭和50年までの間に歌集 『山西省』(戦地詠)『小紺珠』『晩夏』『日本挽歌』『定本宮柊二全歌集』(毎日出版文化賞受賞)『多く夜の歌』(読売文学賞受賞)『藤棚の下の小室』『獨石馬』を上梓。評論集に『埋没の精神』、評釈に『山家集』、エッセイ集に『机のチリ』などがある。昭和28年3月、歌誌 「コスモス」を創刊主宰。宮中お歌所選者、朝日歌壇選者。

受賞のことば

宮 柊二

 薄い一冊を読んでいた。一九七二年三月発行になる、瀧口修造氏の『三夢三話』という本である。そのⅡの

 「さび、それが俳諧の真髄のひとつであることを説こうとつとめているのだが、蕉翁その人である私が、さびは錆に通じ、それは石や金属までも腐蝕し、しだいに消滅にみちびくが、しかし「さびし」にも通じる。それは孤独とも違ったもので、しかしどこか荒涼として、誰もいなくなり、ついには自分もいなくなる――だいたいそんな風なことをしゃべるのだが、自分はこと志と違ったことを言ったと悔んでいる。ペレは私を遮るようにして「それはフランス語のサビール Sabir だ!」と、ここぞとばかり叫ぶ。」
というところまで読んだとき、角川書店から人が訪れて、第十回迢空賞に貴君が推されたから受けるかと言う。読んでいた瀧口修造の話は、パリで自分が芭蕉となってフランスの詩人たちと会っている夢を書いているので、後が続く。その夢の話が頭に残っているためか、角川書店の話を他の用件ととり違え、何か関係のない返答を進めているうちに、相手から咎められた。咎められて、自分の話と理解するまで、時間がかかった。
 辞退した。辞退を言いながら、第八回迢空賞を田谷鋭氏が受賞した折り、祝賀の式上で「私だって迢空賞を貰いたいのに」と口走って笑われたのを思い出した。そして受けようと思い返した。
 その夜、「三夢三話」の続きを読んだが、今度は迢空賞受賞のことが頭に残った。
 私の歌も少しずつ違ってきたように思えるが、また少しも違っていないようにも思える。主観と客観、私と人とは違う。違っていていいとも思い、眠りに入った。
 それはいずれでも、既存の迢空賞受賞の先輩や友人を想い、またいまは亡い迢空先生を遙かに偲びながら、自分の今回の恩賚に心つつしむのであった。そして眠り際、勉強しなくてはと思っていた。


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