島田修二
歌集は何冊も出すものではない、というのが持論でしたから、この第四歌集をまとめる時に、どこまで入れるか大へん迷いました。結局、勤めをやめた時点までに限ったのは、実生活のけじめをつけると共に、宮柊二先生の『多く夜の歌』に倣ったものです。勿論、中途退職して歌人として自立しようと計ったのも、先師白秋の許を辞した柊二の半生と作品をつぶさに見てのことです。不肖の私をここまで導いて下さいました宮先生、本当にありがとうございました。
勤めをやめる時に、天中殺だから一年延ばせ、と真剣に言ってくれた友人がいました。もう勤めをやめる歌を作っているところだから手おくれだ、とは言えませんでしたが、とにかく実生活の方を「渚の日日」に合わせてゆくほかなかったのです。幸いにして天中殺もさほどのこともなく、むしろ順調すぎるほど恵まれていたと思いますが、このたびの受賞はまことに大きく、その総括のように思えます。安逸に流れようとする私の晩年に、大きな警鐘が鳴りわたったようです。心して、この賞にふさわしい努力を重ねてゆきたいと思います。
先代、角川源義社長以来、角川書店には重ね重ねの恩恵をいただきました。審査に当った先輩諸氏とともに厚くお礼申し上げます。出版元の大久保憲一氏、そして造本を手伝ってくれた荊妻、美佐子ともこの喜びを頒ち合いたいと思います。
「究極相と未来相」 上田三四二
老来、佐藤佐太郎氏の短歌は無比の古勁に達した。世に示して、ここに真に闌(た)けたる「花」ありと断言しうるのは『開冬』以来の氏の世界だが、繰返し言うまでもあるまい。昭和五十三年、第十三回のこの場において、私は賞の外にいる氏をほかならぬこの賞のために惜しんだことがある。『開冬』『天眼』そしてこのたびの『星宿』――受賞は遅きに失したが、遅きに失したのは氏の存在の、あまりの大ゆえに、と言おう。
きはまれる青天はうれひよぶならん出でて歩めば冬の日寂し
道のべに十株ほどの金盞(きんせん)かがやきて春晴はいま風に随ふ
島田修二氏の『渚の日日』はつらい歌集である。つらい歌集だが、また歌人としての氏の未来を孕む希望の歌集でもある。平明な歌柄のなかに、みずからと家庭と、さらに社会をも合わせ含んで、その受苦の姿勢はまた受けて立つ志とも、祈りともなっている。そして氏の生の原点には戦争と海がある。心が勝って言葉に粒立つところの少ない欠点を今後どう克服するか、言葉を迫(せ)め、表現に固有の色を現じて、大成の期待に応えていただきたい。
冬の梢打ち合ふ音を聞きていま奈落のごとき舗道を歩む
水漬きたる軍装おもく泳ぐ夢いくたびか醒む戦後を醒めず
「二つの境地」 岡野弘彦
『星宿』は佐藤氏の七十歳から七十三歳までの四年間の作品を収めている。その歌について氏は「先師斎藤茂吉先生には七十歳以後の作はない。私は未到の境地をのぞきみる気持で作歌しようとしたのであつた」と言う。作者の志した未到の境地は、集中のこんな歌に示されている。
夏至のころ萩さきそむる古庭(ふるにわ)のあはれをしのぶ後の日もあれ
杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずと何時人は言うふ
老いのわび歌などいう消極的なものと違った、不思議な心の強靭さが感じられる。
『渚の日日』の作者、島田氏はまだ五十代なかばの気鋭の歌人であり、またこの歌集に収められた歌は、五十歳までの七年間の作である。
わたなかを照らせる月を見てをればわが現身の明るむごとし
壜あをきなかに溜れる夕光(ゆふかげ)を瞻(まも)りて戦後三十年過ぐ
死と隣りあわせに生きる戦後の生を歌って、透明でしずかな明るさに満ちた現実のとらえ方に感動させられる。
「二作家について」 田谷 鋭
山高き峡の青葉は日に照れりそのまぶしさの動きてやまず 佐藤佐太郎
『星宿』の後半部に右のような作品が見られる。ここで青葉は単なる峡谷の青葉の生動を超えて象徴的なある存在として読む者に知覚される。感覚が生体の領域を凌駕して一つの思想・哲学としてあり得ることをこの一首は語っている。そして『星宿』一巻にはじつにおびただしい量の等価の作品が収められているのである。今さらながらこの作家の果した、また果しつつある仕事の重みが思われる。
なかぞらに径あるごとく冬の陽のわたりゆくさへわれをあざむく
『渚の日日』は世の従来の作品が多く感覚から入り、思想へ抜けてゆく中で、意志から入り思惟の形成をうながす、という点で独特の位相に立つ歌集と言えよう。島田氏はこの方向を三十年に亘って営々と重ね今や重量感ある一つの歌口をつくり上げている。そうした中にも若々しい想念がたとえば前掲のような作をなさしめている。虚妄の中にある現代人の心理が孤独の思いを伴ってここに的確に語られている。
「二歌集に寄せて」 馬場あき子
『星宿』は佐藤佐太郎氏の第十二歌集である。一人の歌人の円熟について思う時、老境への信頼ということは大きな判断の基本であろう。私は氏が病いに克って歌境に厚みをまし、言葉がやわらかに肥えていることに信頼を置く。一つ一つの言葉がふくらかで、連鎖が有機的で、自ずからなる老いの艶を含んでいるのは瞠目に価する。
一年の寒暑に老いし草木にまじり声なき梅ひらきそむ
落月のいまだ落ちざる空のごと静かに人をあらしめたまへ
また、島田二修氏の『渚の日日』は、短歌への没入の生活を求めて、定年をまたず退職を決意するに至る日々の歌をもって成立している。内面的な充実期の、緊張した思索に生まれた作品は、自ずから現代を生きる生のにがさと、真撃な生活態度を反映しつつ、今日的な問題を抱えた生活者の骨太さをもち、内省の深い一世界を提示している。
蹌踉と杜甫の家族も従きゆきしこのなまぐさきにんげんの列
サラリーの語原を塩と知りしより幾程かすがしく過ぎし日日はや