皆吉爽雨
受賞を聞いたのが、丁度父の命日だつたので、仏壇に灯をあげて手を合せた。父は福井県丸岡で旧派の句をつくり、幼い私によくほつ句の話をしてくれて、十七文字と私を結んでくれた最初の人だつた。
次に居間にかけている「金剛庵」なる額に向つた。大阪で恩をうけた故西浦泉水翁の新邸のために、四十余年前虚子先生が書かれた庵号で、数日前はからずもゆずりうけたものである。この額のもとで初学の勉強をかさねた頃を思い出しながら、終生の師虚子先生、先生に結びつけて手引きされた大橋桜坡子氏、そうした方々にこうべを垂れたのである。
受賞のしらせをもらつた角川源義氏は「短歌の方はあなたの尊敬される人です、おわかりでしよう」とつけ加えられたので即刻吉野さんだと知り、病床の吉野秀雄氏に手紙を書いて、驥尾(きび)に付し得たことは二重のありがたさであると申しあげた。吉野さんは浅い交りであるにかかわらず、「私は歌よみながら同じ写生派であることによつて、君を云々」と言つて、拙作をみとめて鞭撻をおしまれぬ部外唯一の人であり、私の一つの理想像として尊親してやまぬ大人である。
いただいた賞が「蛇笏賞」であることをも深く思つてみた。初学最初の投句がホトトギスと共に蛇笏選の雲母で、三河の西尾から発行されていた頃のことである。初心ながらこの先進を敬仰していた為であつて、後年大阪に迎えるにあたつて、わが師来れりとばかり、歓迎の辞を買つて出たことを思い出す。
こうして私は、このたびの賞をつつしみよろこんで、諸恩に礼拝し、五十年にしてようやくわが句はじまるという覚悟をおぼえながら一日を送つたのである。