安永蕗子
四月二十六日夕刻、湖畔を歩いて帰りつくなり、家の中の電話のベルを聞いた。電話は『冬麗』が第二十五回迢空賞に決まったというお知らせであった。再び湖畔に出たが、 別れたばかりの友人二人はすでに柳並木の奥に消えていた。入院中の父に知らせようとしたが、面会には時刻が遅い。途方に暮れて、身近な友人である直木賞作家で県の近代文学館々長でもある光岡明さんに電話をした。光岡さんはまだ帰宅していなくて、今日も帰りはま夜中でしょう、と奥さんが笑った。その笑い声で急に気が楽になって机の前に座った。第一回の受賞者は吉野秀雄であった。二十数年前の、はるかなる仰望を思いおこして、そんな賞を頂いていいのかと思った。ただ『冬麗』に感謝である。
翌朝、父にこのことを告げた。父は目をつむっていたが確かに聞きとめている顔であった。しかし、それから九日めに、父は九十九歳の生を閉じた。嵐のような日が過ぎた。しかし、今、大いなる迢空と、もっとも親しき歌よみであった父と二人の死者を思い、生れてはじめて女冥利につきるような気持になっている。
「『冬麗』の孤独境」 岡井 隆
対岸の槐(ゑんじゅ)大樹が抜かれをり十月二日遠方の地震(なゐ)
意表をつく歌の一つだろう。だが、この景色は心をひく。遠方の地震は、どこの地震でもいいのだ。地球のうら側でもかまわない。そのしらせと、川の対岸の槐の運命とが、重ねられるともなく、重ねられている。
この一巻は、安永落子さんの近年の収穫であるが、中国旅行の所産とみられる一連などをみていると、墨絵風の味わいが出て来ているように思う。中国旅行は度かさねられている。この人のもう一つの道である書の関わりで訪中されるのだろうが、歌はまた歌で独自である。わたしなどとは全く違う歌境であるが、かえってこの、なにかを放下したような作品世界に面白さを感ずる。
音たてて秋の地表を離れゆく一人一つの心ぞあはれ
以後のことみな乱世にて侍ればと言ひつつつひに愉しき日暮れ
「みな乱世にて侍れば」とでも言わなければ耐えられないことも多い。そして究極において、「愉しき」と達観して人は生きるのだ。
「格調の高さ」 岡野弘彦
『冬麗』はこの作者の十冊目の歌集である。着実にその歌境を深めてきた安永さんの近業の充実は、この一冊に十分に示されている。安永さんの歌は、一首の構成に工夫があり、漢語の熟語を多用して、歌の内容を盛りあげてゆくというところに特色がある。しかし一方でこの作法が平衡の度を過ぎると、しらべの柔らかさが失なわれ、漢語の抽象感が一首を重くしてしまう場合があった。
それが最近の作品では、美しい熟成を示すようになっている。殊にこの『冬麗』の歌の中ですぐれた印象を与えるのは、中国旅行の作品を収めた「飛天」の章があって、著者が駆使する漢語の重厚な語感とひびきが、歯ぎれよくあざやかに大陸の風土や生活をとらえ得ている部分である
薄明の西安街区抜けてゆく奥のかまどに粥煮ゆる頃
明眸も皓歯もともに一頭の馬のことにて天馬あゆめり
いわゆる女歌ふうな歌の風姿よりも、こうした簡明でいさぎよい歌の格調が、この志高い女流歌人の本質の姿であるはずだと私は思う。受賞作の無かった昨年にひきかえて、今年すぐれた歌集を得たことは、何よりもよろこばしい。
「艶にして雅」 清水房雄
一人の芸術家が二つの領域に心力を傾注した場合、その二つの相互関係が効果的に作用すると、好ましい相乗積を生ずるらしい。例えば王維の画と詩、蕪村の句と画、大雅の画と書との如く。今、安永さんの歌、どうも余人のそれとは異なる風韻があるのは、恐らく専門家としての書との間にそれがあるようだ。当節騒がしい歌、群の中にあって、際立ってすっきりとした艶雅な風格は、それと関わるであろう。歌うところ皆、この世のものを把えながらこの世ならぬ姿を見せる、それは幻想というよりは、純度の高い抽象世界の言語美と言ってよかろう。どの歌も明晰で流麗、感情のアクセントがくっきりとし、詞句の隅々迄心届き、弛みが無い。句法の点で一つ。一首の山場を導き出す第四句が漢字四字句による七音律のものは、従来の集にも散見したが、この集に至り、数量的に言って全歌の一割を超え、用語は多様で、時に句割れを含んで変化に富む。このあたりに安永調の確立するかの感があるが、これが今後どう進展して行くか、注目したい。
ぐいぐいと水位落ちゆく大寒の湖たどきなく鴨の子浮かぶ
花咲ける合歓の並木の下急ぐ欺瞞華鬘(けまん)の淡きうす紅
「瑠璃をかくさぬ」 前 登志夫
「湖岸(うみぎし)の歩みおのづと水踏めば瑠璃をかくさぬ翡翠(かはせみ)飛べり」――安永さんは江津(えづ)湖のほとりに新居をもたれた。大阿蘇の伏流水の湧く所だ。安永さんみずから摘まれた湖の若葉を送っていただいたこともある。「改めて自然詠の方向に、人生必然の理由を見ることにもなりました」と、『冬麗』のあとがきに著者は述懐する。
モダニズムの才華が、人生の深まりと共にその芸術的達成を遂げるのは、本当は相当に苦しいことだ。単純な境涯詠に落ちつくわけにもゆかぬ。まさに「瑠璃をかくさぬ」、いやかくせぬ匠気がある。「山楊の未熟を甕に潰けこみて澄むこと難き夜を眠るかな」と、正直に呟くように清澄な境地には簡単に往くことができない。
「尋常を遂げゆくものを哀しめど加賀の稲田の垂り穂をさなし」とよまれる、尋常なるもののいとなみに注ぐ眼差の深まりが、今までにない魅力である。「群ら星のなかのひとつか白昼の夢見の星の黄のきんぽうげ」「タぐれはましてたひらぐ水張田を風ぞわたらふ雲ぞわたらふ」「夕すげが咲けば明るき夜の山と風土記逸文阿蘇にとどめよ」「ほろほろと草渡りする雀子の命は軽く夕風に乗る」などの軽みのよろしさ。中国・西域の羈旅の歌からも八首ばかり佳什を拾うことができた。