秋元不死男
あれは何年前のことになろうか。とにかく戦後まもなくのことである。毎日新聞社が全国名勝俳句を募つたことがある。選者に虚子・蛇笏・風生・秋櫻子・誓子が当たつた。そしてその選者打合会が東京・上野桜木町のさる料亭で開かれた。当時、病を養つていた誓子の代理としてその打合会に出た。少し早目に会場に着くと、お客さまがひとりお見えになつていますと案内の女中が言つた。どの先生が見えているのかと思い部屋へ通ると、座敷にごろりと横になつて憩んでいる髪の長いひとがいた。初対面だつたが、一目ですぐ飯田蛇笏先生だとわかつた。先生はかなり早くからきていたので退屈しておられたらしく、私をみるとしきりに話をはじめられた。問われるままに私は戦前、嶋田青峰の「土上」で俳句を勉強していたことを話すと、たいへんなつかしがつて青峰との思い出話をきかせてくれた。「土上」はホトトギス系の俳誌として大正十一年に発刊されたものだが、のち新興俳句運動に加わり昭和十六年に廃刊した。当時、私は東京三のペンネームで作品を発表したり、文章を書いたりしていた。無季俳句や連作俳句もいくつか作つた。俳誌月評などもよく書き、「雲母」をとりあげたこともあつたが、蛇笏先生の文章にふれて、蛇笏の文章は佶屈難解で読むに耐えないなどと生意気なことを書いた。それを憶えておられた先生は、「東京三という嫌な奴がいたが、あれはいまどうしている」と訊かれた。頭からそういわれると、実はその嫌な奴が、今は名を改めて、この秋元不死男で、とはいえなくなつてしまい、「さア、どうしていますか、おそらく死んでしまつたんではないかと思います。」と言うと先生は、「そうか」とうなずかれた。戦後間もなくのことだつたから、先生が私の改名など知つていようはずはなかつた。