蛇笏賞・迢空賞

第59回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第2回蛇笏賞受賞
『万座』(角川書店刊)他
秋元不死男
【受賞者略歴】
秋元不死男(あきもと ふじお)
1901(明治34)年11月3日、神奈川県横浜市生まれ。本名、不二雄。13歳のときに漆器輸出商を営む父が病没。母が一家を支える。1916年、横浜市第二日枝小学校高等科卒業、横浜火災海上保険会社入社。同社で守能断腸花らの句会に参加。1929年、嶋田的浦が入社、同僚となる。翌年、的浦に兄・嶋田青峰を紹介され師事、「土上」に参加。1934年、新興俳句運動に参加し、西東三鬼らと交流、「新俳話会」幹事となる。1940年、「土上」終刊、三鬼らと「天香」創刊。同年3月、第一句集『街』刊行。1941年2月、新興俳句弾圧による治安維持法違反の嫌疑で検挙され、失職。1943年2月、保釈。1947年、俳号を秋元不死男に改め、現代俳句協会設立発起人となる。翌年、山口誓子の「天狼」創刊に参加。1949年、「天狼」東京句会を母体として「氷海」創刊、のち主宰。1950年、第二句集『瘤』刊行。1961年、現代俳句協会を脱会、俳人協会設立に参加。1968年、句集『万座』にて第2回蛇笏賞受賞。評論集に、『現代俳句の出発』『俳句入門』など。

受賞のことば

秋元不死男

 あれは何年前のことになろうか。とにかく戦後まもなくのことである。毎日新聞社が全国名勝俳句を募つたことがある。選者に虚子・蛇笏・風生・秋櫻子・誓子が当たつた。そしてその選者打合会が東京・上野桜木町のさる料亭で開かれた。当時、病を養つていた誓子の代理としてその打合会に出た。少し早目に会場に着くと、お客さまがひとりお見えになつていますと案内の女中が言つた。どの先生が見えているのかと思い部屋へ通ると、座敷にごろりと横になつて憩んでいる髪の長いひとがいた。初対面だつたが、一目ですぐ飯田蛇笏先生だとわかつた。先生はかなり早くからきていたので退屈しておられたらしく、私をみるとしきりに話をはじめられた。問われるままに私は戦前、嶋田青峰の「土上」で俳句を勉強していたことを話すと、たいへんなつかしがつて青峰との思い出話をきかせてくれた。「土上」はホトトギス系の俳誌として大正十一年に発刊されたものだが、のち新興俳句運動に加わり昭和十六年に廃刊した。当時、私は東京三のペンネームで作品を発表したり、文章を書いたりしていた。無季俳句や連作俳句もいくつか作つた。俳誌月評などもよく書き、「雲母」をとりあげたこともあつたが、蛇笏先生の文章にふれて、蛇笏の文章は佶屈難解で読むに耐えないなどと生意気なことを書いた。それを憶えておられた先生は、「東京三という嫌な奴がいたが、あれはいまどうしている」と訊かれた。頭からそういわれると、実はその嫌な奴が、今は名を改めて、この秋元不死男で、とはいえなくなつてしまい、「さア、どうしていますか、おそらく死んでしまつたんではないかと思います。」と言うと先生は、「そうか」とうなずかれた。戦後間もなくのことだつたから、先生が私の改名など知つていようはずはなかつた。


受賞者一覧に戻る