加藤楸邨
『まぼろしの鹿』が蛇笏賞にきまつたといふ電話を角川源義さんからいただいてびつくりした。寝耳に水といふのはこのことだつたからである。
実はその前、別の文学賞のとき、「匂ひがするぞ」といふ悪友どもの話を耳にしたことがあつたが、「それは駄目さ。まぼろしの鹿だものね」といつてゐたところ、そのとほり賞は素通りしてしまつた。すこしばかりがつかりしないわけでもなかつたが、一面その方が私にふさはしいやうで安心もした。その時残念がつてくれた友人には、
まぼろしの鹿はうつつもしぐれかな
といふいささか風雅な一句を贈つて慰めたりした。元来『まぼろしの鹿』は良寛の時雨の鹿の旋頭歌を手に入れそこなつた時のもの、昨年の正月「俳句」に出した、
まぼろしの鹿はしぐるるばかりかな
がそれで、句集もそれを題にしたものである。
「まぼろしの鹿」といふのが何ともおもしろいし、『一茶秀句』を書いた私にとつて、ふさはしい気もしてゐたわけである。一茶には「我が門へ来さうにしたり配り餅」といふ句があつてなかなかたのしいのである。
私は過ぎたことには割合に執着しない方で、すぐ次のことに熱中できるたちだから、この頃はそんなことを忘れてしまつて、今年は何とかすこしましな句を作りたいものだと思つてゐた。そこへ受賞といふのであるから、しつかりゆけよと力づけていただいたやうなものである。
蛇笏賞については審査にあたつたのはどんな方々なのかまつたく知らない。私ごときを推して下さつてまことにありがたいことだと思ふ。自分のペースでゆくほかはないが、鈍骨は鈍骨なりにしつかりやつてゆきたいものである。