蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第40回迢空賞受賞
『憂春』(角川書店刊)
小島ゆかり
【受賞者略歴】
小島ゆかり(こじま ゆかり)
昭和31年愛知県生まれ。早稲田大学文学部卒業。昭和53年「コスモス」短歌会入会。現在、同短歌会選者・編集委員。歌集に『水陽炎』『月光公園』『ヘブライ暦』(第7回河野愛子賞)、『獅子座流星群』『希望』(第5回若山牧水賞)、『エトピリカ』『憂春』。エッセイ集に『螢の海』『うたの観覧車』。入門書に『短歌入門 今日よりは明日』など。産経新聞・熊本日日新聞などの歌壇選者。毎日新聞書評委員。現代歌人協会理事。青山学院女子短期大学・早稲田大学非常勤講師。

受賞のことば

小島ゆかり


 歌集『憂春』の時期は、かつてないほど作歌に苦しみました。社会の状況も、わたくし個人の状況もさまざまに憂いの多い日々であったにも拘わらず、何を歌っても、どうしようもなく言葉が軽く浮き上がるような感じで、怖くて歌ができなくなってしまいました。
 そこで、どうせできないのなら、いっそのこと思うさまやりたいことをやってしまおうと、テーマ制作に取り組みました。歌物語としての連作や、長歌・旋頭歌の試みなど、夢中で試行錯誤しているうちに、歌ができなかったことを忘れ、歌を作る素朴なよろこびに立ち返ることができました。
 こうした試行錯誤がいくらかの実りをもたらすかどうかは、今後に持ち越された課題ですが、このような心許ない時期の作品集に、迢空賞という望外の賞をいただき、大きな勇気を与えられました。努力をして、この賞にふさわしい作者になりたいと思います。
 選考委員の方々、角川文化振興財団、角川学芸出版のみなさまに心からお礼申し上げます。角川書店創立60周年記念角川短歌叢書の第一回配本として出版していただきましたことにも不思議な幸運を感じております。
 「コスモス」短歌会はじめ、多くの先輩や友人に感謝致します。

選評(敬称略/50音順)

「選考を終へて」 岡井 隆

 今回の選考会では、早い段階から岩田正歌集『泡も一途』と小島ゆかり歌集『憂春』の二冊に対象がしぼられて来て、二冊同時受賞か否かが論議され、わりとすんなり同時受賞がきまつたといふ印象であつた。わたしは、お二人の受賞をよろこび、心よりお祝ひを申し上げたい。
 岩田さんは、わたしにとつては若いころからの知り合ひであり、その最初のころからの歩みをつぶさに知つてゐる。戦後短歌の歴史をよく知り、その中央を歩いて来られた。わたしの作品についてもその折々にするどく深い理解を示されたりし、また敵対する論を展開されたりしたのであつて、私情を抜きにして何かを語ることの困難な歌人である。かういふ立場にわたし自身立たされたのも運命と思ふ外ない。二十年程の評論活動をへて、作歌に復帰されたのであつたが、作風は若年時のそれとは違つてゐて、わたしなどをとまどはせたのであつた。今度の歌集には、老境のもたらす〈軽み〉のごときものが見られ、また、一方で若年時のひたむきな純情を思はせるやうなものもうたはれてゐる。まだこれから、動いていかれるのかもしれない。わたしは、氏の歌境の行方に注目したいと思つてゐる。
 小島ゆかりさんは、一歩一歩、確実に力をつけて来られた歌人で、『獅子座流星群』『希望』『エトピリカ』といふ風に歌集ごとに作品をふかめて来られた。特に、単なる個の生活にとぢこもるのではなく、社会的な話題や個を超えた主題にいどんでをられるのが目立つ。歌の印象は、前向きで、向日性の作家といふ風に思はれさうであるが、さう単純に色わけのできる歌人ではない。それは、たぶん一つは、家族をかかへての実生活の基底から出て来てゐるものと思ふのである。また、他方、小島さんの実験的な作風からも来てゐるやうに感じられた。社会的な主題といつた取材の他に、今度の歌集では、落語や説経節に触発された作品群があり、これは賛否のわかれるところかもしれない。しかしわたしは、これも新しい試行にいどむ実験的精神とおもつて見てゐる。オノマトペや寓喩、隠喩の多用も目立つところであるが、これらを含めて、今後も旺盛に、新しい分野に、テーマ上も、修辞の上でも挑戦して行かれることであらう。

 


 

「老練と新爽の両歌集」 岡野弘彦

 今年度の迢空賞は久しぶりで、老練と新爽の二人の作者に受賞が決まりました。岩田正氏は私より何ヶ月か人生の先輩ですが、その作品には自在な若々しさがあります。
  腹が鳴るかなしいと鳴る食べてゐて食べられぬ人あるゆゑに鳴る
  昨夜(きそ)群れてをどりし余韻余所者(よそもの)にあたたかくさびし盆明けの空
  直立不動の姿勢をつねに好みたり怖ければ鎧へり少年われは
 同じ年齢で、戦中・戦後の時代を、私などよりもずっと純粋に、心を痛めながら生きてきたこの作者の、やさしさ、あたたかさ、そして頑固さが、わかりやすく伝わってきます。最近はさらに、歌に諧謔や風刺が加わってきました。八十歳には八十歳の歌の風姿があらわれてきたのだと思います。
 小島ゆかりさんの『憂春』は、多様な意欲が多彩に現れた歌集です。〈なにかあやふき感覚は来ぬ岩かげを声なき蝶のもつれつつ飛ぶ〉は、北原白秋の〈物の葉やあそぶ蜆(しじみ)蝶はすずしくてみなあはれなり風に逸(そ)れゆく〉を、〈若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)といふ人の名をおもへばたのし春の早雲(はやくも)〉は釋迢空の〈ゆくりなく鹽屋連鯯魚(ノムラジコノシロ)と言う名聯(ウカ)想びてゆふべに到る〉を下に踏んで、歌境を展開させています。
 さらにオノマトペの豊かさや楽しさ。
  蟬はみな小さき金の仏にてせんせんせんせん読経のこゑす
  炎昼のわあんゆうんと歪(ゆが)みつつ樹木は蟬の声に膨らむ
 『梁塵秘抄』の「金の御嶽にある巫女(みこ)の打つ鼓……ていとんとうも響き鳴れ/\打つ鼓」などを連想させ、玄妙です。白秋系の才能すぐれた歌人の出現を喜びます。

 



「意欲溢れる二歌集」 馬場あき子

 小島ゆかりさんの『憂春』は、その四十代後半期を代表する第七歌集である。「憂いの中にこそ、生きることの尊い謎がある」という発見もあった大切な時期の作品で、小島さんが従来もっていた表現のうま味に加えてさらに新生面を拓こうとする意欲が見える。
 説経節の「しのだづま」や「小栗判官」などに触れて作品化をはかるなど作風の変化を求めての大胆な試行は、今後に必ずやよき実りとして表れるだろう。しかし、この歌集では、むしろ日常の素材の中に、今日性や〈私〉そのものを反映した作品に心の深さが加わった魅力がある。
  午後のかぜ瀞(とろ)にしづみて夏ふかしあなひそかわれに魚の影ある
  シーア族難民ゆゑにパキスタン国境に来て棒で打たるる
  みづからが釣りたる魚を食む子らは眼しづかに骨まで食べぬ
  石川原、草川原あり 蜻蛉(せいれい)のにほひにみちて秋の陽は照る
 岩田正さんの『泡も一途』は、長く評論を書いてきた視線が作歌にも援用されており、批評性を伴った微妙な距離の取り方や、あえて意図されたしゃにむにな独善と主観で押し通す方法などが混在し、独特の気分を横溢させている。八十歳を越えた年齢を思わせぬ少年ぽい生真面目さが、やや異様なおかしみを醸し出している。結語の早さや、わかりすぎるという直言もあるが、吉田兼好の言葉をかりれば、「おぼしきこといはぬは、はらふくるるわざなれば」という思いであろう。
  こゑのみでひとのかなしさ知る茶房背中あはせの顔は見えねど
  直立不動の姿勢をつねに好みたり怖ければ鎧へり少年われは
  「めし」と大きく書く食堂の暖簾(のれん)あり浪花の覇気は江戸にまされり
  若きらの帰りしのちの夜の沈黙(しじま)しじまの醸す力みつむる
 



「歌と暮しと」 武川忠一

 まず『泡も一途』から書く。この名前が面白い。集の最も根本を、結晶させている世界を、言いつくしていると言ってよい。確かに、人の一生はこの世に生まれた泡のように、浮かび漂い、たちまち消えてしまう。まさに「泡」のような存在であるに違いない。それが『泡も一途』と言うと、人間の生活、暮しの持ついとおしさ、ぬくもり侘しさが浮かび、この世に生きる大方の人々の姿と心が見えてくる。
  ながらへて九条の改悪見んとするいのちとはかく不条理なもの
などの巻頭近い歌から、
  内と外(と)に緊張は日々増幅す老いても生の総括はせず
  臆病の犬はよく吠ゆかすれたこゑふり絞りよく吠ゆるわれ
  裂帛(れっぱく)の気合ぞ恋ひし朝覚めてヤと飛び起きると……言ふことでなし
 自在な面白さ、笑いと共にある風刺や怒り、作者と一体になって歌を楽しめる。
 小島ゆかりさんの『憂春』も、集の作品にいかにもぴったりした題だ。確かに「憂春」があると言える。わたしは学生の頃の小島さんの歌がどこかしっとりとしており、言葉には、おのずから、歌の格というべきものを生かしていることを知っていた。今回改めてそれを育んでこられて、こまやかな感性が「憂春」の影にも一点すこやかな思いの支えが、歌の調べになっていることを知った。知的で、生活や日常を処理できる人だろうと勝手に想像する。
  玉のごと白湯(さゆ)やはらかし生くる身のもやもやふかい冬のあさあけ
  弾丸の速さに雲へ飛び込みし冬の鳥あり のちしろき風
  椿さく下土黒しこの朝は霜の神殿ひそやかに建つ
  走り来て赤信号で止まるとき時間だけ先に行つてしまへり
 「白湯」六首からあげた。集中の二編の長歌は意欲的。しかしやはり消化力が不足だった。

 


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