蛇笏賞・迢空賞

第59回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第4回蛇笏賞受賞
近詠30句「秋風挽歌」(『俳句』1969年11月号掲載)他
福田蓼汀
*句集『秋風挽歌』は、蛇笏賞受賞後の1970年12月に刊行。
【受賞者略歴】
福田蓼汀(ふくだ りょうてい)
1905年(明治38年)9月10日、山口県萩市生まれ。本名、福田幹雄(ふくだ みきお)。東北大学法科卒業。日産コンツェルン諸会社に勤務。昭和初期に父の任地熊本に帰省し、俳句を知る。1931年、小宮豊隆教授の紹介により高浜虚子に師事、「ホトトギス」に拠る。1940年、「ホトトギス」同人に。虚子指導の「九羊会」で、川端茅舎、松本たかしと、「夏草」の草樹会で山口青邨、中村草田男らと交流。1939年の八ヶ岳登山以降、山岳俳句を作り続ける。1948年、「山火」創刊、主宰となる。第一句集『山火』刊行。1959年4月8日に師・虚子を、同年7月3日に父を喪う。1961年、俳人協会発足に参加。1969年、次男が奥黒部で遭難死。追悼句「秋風挽歌」30句を、『俳句』11月号に掲載。1970年、「秋風挽歌」とこれまでの句作活動の業績により、第4回蛇笏賞受賞。句集はほかに、『碧落』『源流』。

受賞のことば

福田蓼汀

 受賞対象は「秋風挽歌」他とのことである。
 もし息子がゐたら「よかつたね」と話しかけ記念に山へ出かけるかと地図をひろげて歓談したことであらう。もし健在だつたらこんなこともなく、人知れず体力の許す限り黙々と山を歩み続けてゐたであらう。
 別に手引きをしたわけでもないが、次男だけが山のグループに加わり、いつの間にか体験と体力をつけて山男に生長し、頽齢の身ではついて行けなくなつた。何度か行を共にしたアルプスの最も楽しかつた山々が、今では最も悲しい憶ひ出につながる。受賞の喜びが大きければ大きい程悲しみが深い。山を愛する私にとつて、そこで息子を失ふほど悲惨なことはない。山行は私にとつて体当たりの人生であつた。厳しく美しい季節の摂理の最も純粋な造化と出会ふ詩心昇華の場でもあり、生の証の場でもあつた。俳句は無常観の詩であるとも言はれる。知識として理解しても、現実に遭遇すると、人間のいとなみの総てが虚しく、ただ無常迅速を痛感する。生涯の苦悩に直面し、呼んでも谺のない寂寥を自分の為に記しておきたかつた。
 岳友達が黒部に花束を流し、ケルンを積んで山の歌を合唱してくれた。人知れず書きとめた文字を認めて、その愁を頒ち励まして下さつた方々にも岳人の心が通ふ。その感謝をどう表現してよいか言葉もない。あの崩壊の現地を踏んで霊に報告したいと思ふ。


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