蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第51回蛇笏賞受賞
『十年』(角川文化振興財団刊)
高橋睦郎
【受賞者略歴】
高橋睦郎(たかはし むつお)
1937年、北九州市八幡に生まれ、直方、八女、門司で育つ。中学1年生時、呉茂一訳の古代ギリシア詩に出会い、詩に目覚める。東西の古典を脈絡なく乱読すると同時に、自由詩・定型詩の境なくあらゆる日本語詩歌を試み、現在に到る。俳句もその一つだが、30歳代半ば、初学時代の句を集めた『舊句帖』上梓により安東次男を知り薫陶を受ける。永田耕衣を知りその死まで四半世紀親交。以下『十年』まで句集9冊。88年、第3句集を含む句歌集『稽古飲食』で読売文学賞、2015年、俳句全般の活動に対して現代俳句大賞受賞。

受賞のことば

「無数の手で受ける」高橋睦郎

 俳句を含む詩歌は彼方から訪れるもの、その訪れを受け容れ饗(もてな)すのが詩人の詩作という行為――この信念は今年十二月十五日に八十歳を迎える現在、ますます強く確かなものになっている。そんな私にこのたび、まことに思いがけなく蛇笏賞授賞の報らせが訪れた。これまた彼方からの訪れ――私の詩歌に対する信念への、選考委員諸賢を通しての、彼方からの承認のメッセージと、うれしく受け止めた。
 詩歌は自分の中から産まれるものではない。彼方からインスピレーションとして訪れ、訪れを感知した者を激しく揺り動かす。動かされた者は訪れを受け容れ、客人として留(とど)まっていただくべく饗しに努める。もちろん言葉を以(もつ)ての饗し。とりわけ俳句の場合は季語、切れ字……その他、日本語の富の数かず。それら日本語の富は、和歌・俳譜・俳句をはじめ、詩歌文芸・芸術芸能の先人たちから代代手渡されてきたもの。私が一句を書き取るとき、私はひとりで書いているのではない、多くの先人たちが私の手に手を添えてくださっているのだ。
 だから、今回の授賞もそれら先人たちに支えられた、たまたま私という作句者への授賞。したがって、受けるのもたまたま私の手だが、じつはそれを支えてくださった先人たちの無数の手。俳句が文化遺産とはそういうことなのだ、と改めて実感している。

選評(敬称略/50音順)

「技法と才能と」 宇多喜代子

 多々刊行される句集のなかに、一際濃い色を放つ句集がいくつかある。〈日おもての日裏の時雨比べかな〉〈燈さぬわが家のみなり秋の暮〉〈永き日も日暮はありて暮永し〉などの高橋睦郎の『十年』、〈十万年のちを思へばただ月光〉〈出アフリカ後たつた六万年目の夏〉〈絶滅のこと伝はらず人類忌〉などの正木ゆう子の『羽羽』、今年目をとめたこの二句集は、重い主題をさりげなく出すという点で共通しており、それでいて永久に交わらぬという個々の表情でわけて印象に強い句集であった。二人受賞となった所以でもある。
  『十年』に駆使された蠱惑的な技法は、まことに力を抜いたもの言いとみえて、ときに按ずる力を強いられる。そこをなんの苦もなく手の内のもののように見せる。詩嚢のことばをみずからが選んだ俳句形式でもって芸ならぬ芸能として立てる。ここは俳句教室では学べない領域。これを垂涎の目で見るか、好き者の技と見るか。とてもスッピンには真似できない、そう思わせる高橋睦郎の句業を、無色無臭で刺激のない句、世界観の暖味な句、易々と言い替えのきく句、そんな句の反立として評価した。
 一方の『羽羽』にはことに作者執着の鷹に佳句が多く、〈なんといふ高さを鷹の渡ること〉〈鷹渡るつばきの上も下も空〉〈乾坤の一切となり鷹去れり〉など平明に鷹空間をとらえていて気宇壮大にさせられる。また福島原発への意思を根にした〈牛たちのそののち知らず再び夏〉〈愛しさは振り向く牛の口に草〉〈みちのくの脊梁ごつと朴の花〉などはこの句集の峰の一つだろう。
 両人とも、真似てかなわぬという点において、俳句界に一人いればいいという存在である。高橋睦陸郎は技で自世界を定め、正木ゆう子は才能で書きすすめてゆく。意義ある二人受賞であったとおもう。こののちのご健吟を祈り上げる。

 



「「横超」を志向する形而上学」 齋藤愼爾

 「後生畏るべし」とか「生きながらにしての伝説」といった頌辞は、高橋睦郎氏の存在を最後に死語となるだろう。古今東西の古典を読破、内外の舞台芸能を観、国内外へと旅。六一年間に亘る詩、俳句、短歌、小説、評論、脚本、オペラ、漢詩、長歌、今様、能、狂言、小謡(こうたい)、隆達節(りゅうたつぶし)、常磐津(ときわず)、地唄、端唄、童唄、祝詞、独吟歌仙、等々の完璧なる文学的制覇。
 三二年前、『見えない絵』は第九三回芥川賞候補。二九年前、句集『稽古飲食』で読売文学賞。「後生畏るべし」を云々するのは遅すぎる。というよりそれは戦前戦後を含めて日本文学の天才的存在で、高橋氏の著書に序文・跋文・頌詞を執筆した三島由紀夫、塚本邦雄、安東次男、澁澤龍彥、吉岡実、鷲巣繁男氏らが言うから様(さま)になるのであって、現今の業俳俳人や私如き廃人が言うのは烏滸の沙汰というものだ。『十年』では、〈ついり穴この國の死に病ひ見よ〉〈帚草拔かれねば夜も雲を掃く〉を愛誦していくことになろう。
 正木ゆう子さんには、選ばれたる俳人の聖痕を額に輝かせ颯爽と登場した美神との印象がある。奇天烈にして虚仮威しの句が話題になり成り上がっていくのが常態となった俳壇で、〈木枯の継ぎ目継ぎ目の赤さかな〉〈螢火や手首ほそしと摑まれし〉〈いま遠き星の爆発しづり雪〉といった鮮烈な純粋抒情句で高評価を得てきた。東日本大震災後の時事俳句氾濫するなか、〈真炎天原子炉に火も苦しむか〉は突出していた。プロメテウス神話以来の深層的な「火の怖れ」を素粒子の苦悶と把握した詩的感覚の冴えと思想性。
 『羽羽』の〈出アフリカ後たつた六万年目の夏〉は、旧約の「出エジプト記」を踏まえ、アフリカで誕生した人類の悠久六万年に及ぶ起源と進化を一望する。
 受賞の御両人には、共通して「永遠」に思念=詩念を凝らす、超越を志向する形而上学が横溢している。

 



「稀有なる二冊」 片山由美子

 今回の授賞句集、高橋睦郎『十年』と正木ゆう子『羽羽』の二冊は全く作風が異なるが、共通しているのは、これまでのどんな句集にも似ていず、これからの誰も真似られない世界であろうということである。
 高橋睦郎氏は博覧強記の人であり、恐るべき言葉の使い手である。表向きは詩人を名乗るが、歌人であり俳人でもある。洋の東西まで視野に入れた詩歌横断の知識は、すべて実作に活かされている。
 一句一句の彫琢の過程は如何ばかりかと思うのであるが、完成した作品はその鑿跡など微塵も見せない。ときに独自の文体で読者を煙に巻くものの、それもまた魅力のひとつ。
  形代のわれ流れゆく見送りぬ 『十年』
  人は多くを再び會はず星夕
  のちの世の明るさかくや後の月
  老境も佳境に入りぬ春炬燵
 意外とも思えるほど静かな味わいの作品。それも、こんな作品が入り混じっているからこそ印象が深まる。
  三月の土這ひいづるみな異形 『十年』
  この家の人死に絕えぬ葛嵐
  轢き癖の踏切梅雨を鳴りどほし
 正木さんの『羽羽』には、少なからず無季の句がある。有季定型を貫いてきた作家にとってはアイデンティティに関わる問題なので、これからどう進もうとしているのか、見極める必要があると思った。
  劫初より太陽に影なかりけり 『羽羽』
  断崖に身を反りてわが列島は
  愛しさは振り向く牛の口に草

 



「俳句の方向を問う二句集」 長谷川 櫂

 現代俳句の最先端で何が行われているのか。前年最高の句集を選ぶ蛇笏賞選考会はそれを問う絶好の場だが、今年はとくにその趣旨が鮮明に表われた。
 俳句の豊饒と未来。高橋睦郎さんの『十年』と正木ゆう子さんの『羽羽』。この二冊が大綱を引き合って、暗礁に乗り上げたかと思ったとき、主催者の角川歴彦理事長(角川文化振興財団)の鶴の一声で二人受賞が決定した。「まったく傾向の異なる二冊の句集は俳句の豊かさを象徴している」という決断の言葉が今回の蛇笏賞の性格をそのまま物語っている。
 高橋さんはホームベースは現代詩ということになるのだろうが、俳句への打ち込みようは並ではない。まさに精根を尽くす類いである。かつて安東次男に師事。当時すでに私にはまず俳人として映っていた。この受賞を機に肩書きを「俳人」に改められたらよいと思う。
  死ぬるゆゑ一ㇳ生めでたし花筵 『十年』
  ことごとく白頭吟や秋のホ句
 一方、正木さんは「自由の人」である。そして自由な句を作り、ときにハチャメチャな句を作る。その自由なハチャメチャ精神の中から巨大な句が出現する。
  真炎天原子炉に火も苦しむか 『羽羽』
  絶滅のこと伝はらず人類忌
 雑誌に発表されたときから世評の高い句である。世評はしばしば信用ならないが、これは信じていい。
 さて重要な問題は今回の二人の受賞から俳人たちが何を学ぶか、何を教訓として受け止めるか。まったく異なる二人に共通していることは、とくに「写生」などという近代俳句の固定概念から自由であることである。高橋さんは日本語の豊かな土壌から句を生み出し、正木さんは自分と世界を一体として表現する。今回の蛇笏賞の最大の意義はそれを俳壇として評価したことである。

 


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