内藤 明
思いもかけず受賞の電話をいただき、恐縮し、立ちすくみました。『薄明の窓』は、十年ほど前から八年間の日々のつぶやきをほぼ編年順でまとめた六冊目の歌集です。前歌集『虚空の橋』が短い間の連作を中心としたものであるのに対して、新たな試みがあるわけではありませんが、東日本大震災や身近な人の死が中途にあって、時代の変化を背景に置きながら、自らの生や思いが、時に屈折しながら、やや自然な形で表われているかもしれません。
短歌を作り始めて四十年以上になりますが、まだよくわかりません。この詩形や日本の文学や文化、また〈私〉や自然や歴史についても思いをめぐらしてきましたが、どれも中途半端に過ごしてきました。しかし、短歌を作ることで、声高に主張はしなくても、形なきものを言葉に刻んで残すことができたのは、うれしいことです。迷うことも多いですが、与えられた環境、ともに短歌を作り考えてきた方々、支えてくれた家族に感謝するばかりです。
最後に迢空の名を冠した賞にこの集を選んでいただいた選考委員の皆様に、心から御礼申しあげます。
「人生の重さの伝わる歌集」 岡野弘彦
今年度の迢空賞は、内藤明氏の歌集、『薄明の窓』と決定した。「あとがき」によれば氏の六冊目の歌集で、五十歳代中頃から、六十歳に至る頃までの作であるというその間に、歌の師、武川忠一氏が亡くなられ、更に著者の御両親が亡くなられた。本集の歌は、そういう期間の著者の心身と思考の投影であり、呟きの集積であり、時代の影をも引いて居ると著者が記すように、人生と時代の重さを感じさせる歌が多い。
言葉とは行く雲の影 わたつみにいま生まれたる水泡(みなわ)を思ふ
古きピアノ置かれてありし跡ならむ過ぎし時間は帰ることなし
入り海といへど寄せ来る力あり水平線まで一途なる青
上り来し地上はみぞれ それぞれの歩幅がありて人間の闇
心して優柔不断を断ちしゆゑ沼のほとりにわが独り言つ
更に歌集の後半部に入って、次のような歌がある。窪田空穂・武川忠一といった、私の心にも深く刻まれている人とゆかり深い作である。
「人類はまた戦ふよ」といひしとぞ空穂を想ひ忠一を思ふ
指の跡しるく残れる篠笛を吹きて遥けき人呼ぶごとし
通過点か行き着く先かわからねど死といふものがありて安らぐ
「空穂・忠一・内藤明」 佐佐木幸綱
今年の迢空賞は、内藤明歌集『薄明の窓』に決定しました。五十代中頃から六十歳頃までの作をおさめた第六歌集です。
詞書つきの次の一首が、私には、ことに印象に残りました。
「人類はまた戦ふよ」といひしとぞ空穂を想ひ忠一を思ふ
詞書には「「人類はまた戦うよ 老空穂呟かれたり廃墟の東京」 武川忠」とあります。戦後間もなく、空襲で廃墟になっていた東京で、これがおわりではない、人類はまた戦うよ、と窪田空穂が言ったと武川忠一の歌にある、という意味の歌です。内藤明の師が武川忠一で、武川忠一の師が窪田空穂でした。師弟三代にわたって歴史を楽観的に見ない姿勢を受け継いできたことを一首は表現しています
戦後、新しい時代が来たとして楽観的に未来を見る短歌が多くつくられ、現代もそんな傾向がつづいています。窪田空穂も武川忠一も、さらには内藤明も、そうした潮流に逆らうようにして、歴史を楽観的にはとらえず、自身をもまたマイナスを抱き込んでいる者と見る視点を大切にしてきました。
古きピアノ置かれてありし跡ならむ過ぎし時間は帰ることなし
独り言ごまかし居れば現在の無き人君はと妻の言ふなり
溜息のわれの口よりいづるらし夜の電車に四囲を見回す
後二首は特に、自身が抱き込んだ暗い面をクローズアップしています。この歌集の希有な特色です。
もちろんこのような暗い歌ばかりではありません。歌集には、大自然をうたった佳作が多くあることを、最後に記しておきたいと思います。
「定型に内在する力を活かす」 高野公彦
人生には大小さまざまな起伏があり、人の内面には絶えず喜怒哀楽の感情が生起している。内藤明氏の内面もきっとそのように波立っているはずだが、それをえがく時、歌人・内藤明は決して熱くならず、といって冷たく突き放すでもなく、内面に明かりをともし、ゆっくり眺め、そして誇張せず、本当のことを歌う。風景をえがく時も肩の力を抜いて、写実の基本に沿い、過不足のない描写を行う。
おぼろ月高層ビルの上に浮くヒトの歴史の今どのあたり
冷蔵庫マット自転車本テレビ投げ捨てられて木漏れ日を受く
一人出(い)で一匹増えしこの家に年越し蕎麦を啜り合ふ音
吉凶の間(かん)を生きゐて愉しかり灯火(ともしび)照らし自転車を漕ぐ
一つ一つの歌が、静かな韻律と共に、読む者の心にするりと入ってくる。定型に内在する力をうまく活かした詠み方である。
もう少し歌を挙げよう。〈一脚の椅子としてある歓びにこのあさ窓の光を浴びる〉、窓からの朝の日ざしを浴びて、一個の生命体であるかのような椅子を詠んだ秀作。〈どこといつて悪いところはないけれどわが厚顔の裏のかさこそ〉、これは人の心をくすぐるようなユーモアのある歌。〈貴婦人の絹を紡ぎてはしけやし戦(いくさ)の船を購(あがな)ひたりき〉、明治時代、絹織物で膨大な外貨を稼ぎ、軍艦を購入した歴史的な事実を、非常に端的に詠んでいる。
酒の歌、〈午後四時の雪積む町にいただきぬ釣り金目鯛、辛口謙信〉、〈酒の味わかりはせぬが塩ありて豆腐のありてこの秋の夜〉も楽しい。自由闊達に歌う実力を既に内藤明氏は持っている。
「悩ましい時代をさりげなく」 馬場あき子
漱石の「草枕」ではないが、「とかくこの世は住みにくい」という今日の状況の中で、内藤さんはよく日常些事との出会に丁寧に向きあい対応している。
うつすらと笑つてゐるよ葱坊主四つ五つ六つ月の光に
愉しかる一日なりけり事どもの軽き重きを問はざりしゆゑ
葱坊主は捨て葱である。捨てられながら平然と成長し、花を咲かせ笑っている。この月下に立つ葱坊主の笑いには自足した存在感があり楽しい。著者はあとがきで、歌集名にふれ「その境界領域の曖昧さに惹かれた」というが、これは特色的な視点であり、その歌の質ともかかわるものであろう。掲出の第二首にあるように「事どもの軽き重き」を論ずるのを躊躇するのは、対象のそれぞれへの理解が調和を求めるからだ。こうした知性がその作風をどこかふうわりとなつかしいものにしている
食卓を裏より見ればわが位置にビスの一つが外れてゐたり
絶え絶えに闇の底よりひびき来る消音(サイレント)ピアノの鍵盤(キー)敲く音
逢ふためにいくつ別れを重ねつつ古人(いにしへびと)も酒を讃へき
厩橋(うまやばし)李君とふたり渡り来て泥鱒を食へり胡坐かきつつ
自分の坐位置で外れていたテーブルのビス、消音ピアノから伝わる小さな切実な生の音、そしてよき出会を求める酒の味。また、人物と場面がくっきりしていて印象的な李君とふたりの泥鱒屋でのくつろぎ。どのページを開いても、悩ましい時代をさりげなく生きる人間の声がある。