「砂の一粒を」 三村純也
昭和五十五年、稲畑汀子は二十六歳だった私を「ホトトギス」同人に推した。反対を押し切ってのことだったと聞く。そして、当時、同人会長だった山口青邨に紹介された。青邨は左手を広げて見せ、「君のような若い人は、この掌の一番右端を行くか、左端を行くかのような句を作りなさい。真ん中を歩いているようでは駄目だ。但し、端を一歩でも外したら、それは俳句ではない」とおっしゃったことを思い出している。
あれから私は、あのお言葉通りに歩んできたかどうか、やっぱり真ん中しか通って来なかったのではないかと思うと、忸怩たるものがある。
先師、清崎敏郎は「俳句に新しさを盛るのは容易なことではない。今までの蓄積の上に、砂粒を一つ盛るようなものだ」と言われたことがあった。果たして、これも実践できたかどうか。
ともあれ、非文、敏郎、汀子から学び得たことを一筋に貫いて、花鳥諷詠の世界を、素材も表現も広げてゆく努力はして来たつもりではある。が、まさに愚直・愚鈍な行き方で、進歩も発展もないと言われても、致し方がない。そんな私の作句法と作品を認めていただけたのが今回の受賞かと思うと、万感胸に迫る。選考委員の先生方に、厚く御礼申し上げる次第である。
今後も、地道に牛の歩みを続けてゆくとともに、こんな行き方の楽しさを、後進に伝えてゆきたいと思う。
「個性的な五句集」 高野ムツオ
まず候補作の感想を記す。
『万の枝』は石田郷子の第四句集。若手の印象が今も残るのは言葉が第一句集『秋の顔』以来の鮮度を失っていないからだろう。句会の場で作られた句が全てと「あとがき」で知るが、自然や日常の流動止まない本質をいかに見定め得るかが腐心のしどころとなる。
火柱の見えしと思ふ白雨かな
朧より抜けきて座るからだかな
など、乾坤の変の秘密を見通そうという眼力が四球をよく選ぶ打者のように発揮されている。
食べて寝て痩せてゆく猫草の秋
戦ぎをるものの一つが蛇の舌
それは生き物の捉え方にも通底するところだ。しかし、身辺把握が詩にどう昇華されるか。そこに課題があるとも思われた。次句集が期待される。
『海山』は谷口智行の第四句集。「あとがき」に「海山」は風物や暮しの象徴としてではなく、しみじみとひたすら〈意味〉を消したかったまでと述べている。
鰹来るころ海境のすみれいろ
鯨骨の流れ着きたる涅槃かな
もともと土俗濃い作風で、古代風習や宗教性がどう言葉で重層化できるか興味深かったが、より自然体で具現されていた。
盆肴(ぼんざかな)とて猪肉を解凍す
鋳つぶせり撃ちたる猪の弾抜いて
などの弾丸ライナーのような即物詠にも惹かれるが、季語の情趣に重きをおく傾向が強まっていることには危うさを禁じ得ない。重くれと軽みは本来一体。重くれを秘匿しない軽みは本当の軽みではない。
坪内稔典の第十三句集『リスボンの窓』はリスボンで気ままにまとめた一冊という。耄碌を標榜もするが、才智と若さは今も健在だ。俳句のライトヴァースの四番打者として、もう半世紀近いか。戦後俳句の重くれからいかに脱出し、新境地に至るか、砂煙をかぶりながら禿頭になるまでスタンドから見守ってきた。
肩寄せて銀河にすこし濡れていた
転がって柿に生まれる柿の影
などの軽快な口語表現や当意即妙の写生は魅力的だが、既視感を拭えない句が混じる。
明後日(あさつて)のままに青いよ空豆は
バッタ飛ぶ五世紀ごろの空へ飛ぶ
など、理知と生命力が渾然となって詩情が溢れる。
『高天』は三村純也の第六句集。日々仰ぎ見た金剛山系の山霊に敬意を表した命名という。その割にはおおぶりな自然讃歌は少ない。花鳥諷詠を思想と考え随順の覚悟が定まってきたとも述べている。
今日来よと今来よといふ牡丹かな
葉桜や箸は先より古びゆく
花鳥諷詠がどんな思想か、浅学には知るところではないが、これらは想像力が自在に働いている。
蘖えてなほ千年を保つべし
人は失せピアノは残り原爆忌
など、作者の底力が感じられる。日常瑣末に詩を求めることも大事だが、三振を恐れずもっと力任せに言葉のバットを振ることがあっていい。
『鑑真』は宮坂静生の第十四句集。「あとがき」にあるように「戦争末期」への個人的な思いを込めた一聯や鑑真の生涯への憧れ、アイヌ民族への親近感など、重いテーマで構成されている。終戦時七歳の少年であった氏にとって戦争は生涯の原点。実にエネルギッシュに本塁に突っ込んだ作品群だった。今般はむしろ
墳丘を並べて甲斐や桃の花
雀らも飛ぶより転(ま)ろぶ山の盆
などの風土を掬い上げた作品により惹かれた。
大戸閉むる音より氷りはじめたる
家は地にひたすら根付き寒に入る
など、老境ゆえ凝視可能となった迫力ある世界だ。
今回の蛇笏賞の選考には、私は悩んだ末、『万の枝』と『鑑真』を第一候補に推した。『高天』にも注目していたが、もっとチャレンジ精神が発揮されていい、守備に力を入れ過ぎていると感じていた。しかし、選考中、他の委員の発言から、目指す世界の独自性と表現力に目を開かされるところがあったので、授賞に賛成した。選考会は実にスムーズで短時間で終えた。
「石田・三村両句集を推す」 高橋睦郎
今回の候補五句集のうち、最初に強く惹かれたのは、石田郷子句集『万の枝』。前句集『草の王』から九年ぶりとのことだが、前句集に感じられた或る種のもどかしさが消えて、みごとに自由になっている。人はみなさまざまな過去を引きずって生きている。要はその過去とどう向きあうかだが、この人はその過去と静かに丁寧に付きあうことで、そこからの自由を得たのだろう。自由が齎したものは敢えていえば生きる悦び。その悦びへのやはりあくまでも静かな感謝の吐露の一句一句から成るのがこの句集だ、といえようか。その吐露はみずみずしくまぶしい。
うはぐすりかからぬところ時雨くる
待春の風の眩しさただならず
戸袋に戸がぎつしりや昼の虫
いづこから見ても逆光春の鳥
四五台の停まりて光る野分かな
熱燗や八方にある名無し山
何処より呼ばるる我か更衣
つゆけしや夕暮れの声捨てに出て
藪漕ぎの陽春の野に出でにけり
亡き人と聴く七月の蜩は
三村純也句集『高天』初読の印象は、恰好よすぎるだった。ときに恰好わるいことも引き受けてこそ恰好いいといえるのではないか、とも思った。しかし、再読三読するうちに、この恰好よさはじつは内なる恰好わるさを表に出すまいと、けんめいに堪(こら)え気張っている恰好よさではないか、という気がしてきた。それこそが関西流、それも大阪風の処世の美学だと思えてくると、しだいに馴染んできた。処世ならいきおい人事、石田句集が自然なら三村句集は人事に卓れた句が多いのは成り行きというものだろう。
供へたる水減つてゆく施餓鬼かな
薬喰終りし鍋の脂かな
墓洗ふ生前知らぬ者ばかり
人叩く癖ある女年忘
狸小路狐横丁十三夜
小春日の大阪湾といふ鏡
実家とは昼寝をさせてやるところ
袋角隠しどころの如くあり
風を呼ぶものばかり生け月の供華
梅雨湿りして折れ易きチョークかな
関西流といえばもう一冊、京都産・南紀住の谷口智行句集『海山』。ここには大阪風でも、京都風でもない、光と影の濃い紀の国の明け暮れがある。それを瞶(みつめ)るのはそこに長く棲みつくとはいえ、京都という伝統の地から来た目なのだろう。
もの言はぬ海に御慶を申すなり
ししむらの医の穢を流すクリスマス
大もめにもめ猪の肉分け合ふ
とことはにうしほにけぶる紀のさくら
裸子を裸の祖父が連れ歩く
山のもの海へと返す夏の川
ざうざうと山鳴る夜の注連を綯ふ
宮坂静生句集『鑑真』。一句一句が作品であるとともに、それらを収めた一冊の句集も寛やかながら一つの渾然たる作品だと信じている私の目からは、一句一句の俳句としての構造が緩すぎ、また句集全体の覆うところが広すぎて、中心が見えてこなかった。句集名もなぜ鑑真なのか、鑑真でなければならないのか、よくわからなかった。おそらくは私の不明の致す結果だろう。
冷まじや家の中まで千曲川
八月の坑(あな)立ち上がる影無数
アイヌ葱青人草(あおひとくさ)はかなしき語
たまきはるいのち真埴(まはに)や露の玉
地縛(ぢしばり)の伸ぶる真冬のちからこそ
坪内稔典句集『リスボンの窓』。この句集にふさわしい賞は蛇笏賞をはじめ、現行の賞には見当らない。坪内稔典賞を新設するほかないだろう。そもそもこれは俳句、さらに拡げて詩、文芸なのだろうか。しかし、そのどれにも当て嵌まらない五七五律表現体の可能性への挑戦にこそ、坪内の子規の隔世遺伝的弟子としての矜持があるのだろう。
結局、私としては可能ならば石田・三村二句集を、無理ならばどちらか一冊をと思うので、『高天』授賞に異存はない。
「各々の風土」 中村和弘
今回の五句集のうち宮坂静生句集『鑑真』、三村純也句集『高天』、石田郷子句集『万の枝』、谷口智行句集『海山』の句集は風土性(かつての風土俳句ではない)を帯び、それが特徴となっていようか。そしてなおかつ作風も多様である。どの句集も昨年一読し、注目していたが選考となるとまた別である。
私の一推しは宮坂静生句集『鑑真』、その次は三村純也句集『高天』、石田郷子句集『万の枝』であった。最後は全員の○印の入ったこともあり『高天』の受賞に同意した。
●宮坂静生句集『鑑真』
宮坂静生俳句の魅力は、常に弱者に心を寄せ目線が低いところにある。その視点は初期から一貫して不変である。作品は骨太で力感があり、金子兜太亡きあと他になし、と思う。兜太が秩父であったように、宮坂静生は松本の風土性を帯びる。そして自然を詠みながら、人間くさいところも兜太俳句に通じる。
狂ひたる荏胡麻叩きに狂ひたり
蛇とんぼ仏間ひとつが山の家
牛屠り高粱飯をしのぎきし
結びとて海苔一枚のちからかな
満蒙に往かずざざ虫捕に生く
大戸閉むる音より氷りはじめたる
作者の志を強く感じた句として、
鑑真二十七句より
たまきはるいのち真埴(まはに)や露の玉
桂林の月とて手鞠つくごとし
大江健三郎追想八句より
うそつきを烏滸(おこ)とたたへて夏来たる
●三村純也句集『高天』
受賞作『高天』は、大阪を中心とした関西の風土・季節感、そして生活文化までも生彩を帯びてじわりと伝わってくる。
鉾立たぬ路地に研屋の来てゐたる
とめどなく逢魔が時の花吹雪
動脈も静脈もある鶏頭花
狐火のとんぼを切つて消えにけり
そして社会性を帯びた句、
人は失せピアノは残り原爆忌
等々の季語が新鮮にいきいきと用いられている。そこには作者の季語に寄せる情(こころ)、見えない探求があろう。
●石田郷子句集『万の枝』
第一句集『秋の顔』のころから、師の山田みづえがそうであったように写生・写実を基本としつつ詩情のゆたかさに注目してきた。『万の枝』は、飯能市名栗の自然・風土の中でさらに豊かさが増したように思う。
点したる盆灯籠を草に置く
むささびの穴の下なる秋祭
盆の路刈り払はれて渇ききり
等々写実の巧みさが光るが、私が感銘したのはもう一歩踏み込んだアンビギュアスな匂いである。たとえば、
火柱の見えしと思ふ白雨かな
天泣のはつかな音も冬隣
等の感覚である。
●谷口智行句集『海山』
あとがきに「句集名『海山』は、風物や暮しの象徴としての海と山ではない。しみじみとひたすらに〈意味〉を消したかったまでである」とある。しかし私には作者の住まう海山の風土がこの句集の作品から見えてくる。
対岸の茶畑へ通ふだけの橋
蛍とぶ夜川に米を研ぎゐたり
川底は鉱毒のいろ雪もよひ
山のもの海へと返す夏の川
等々の句に感銘した。
●坪内稔典句集『リスボンの窓』
稔典俳句の鋭い風刺・諧謔・コケットリー、それを支える詩的レトリック。今日のアヴァンギャルドかと注目してきたゆえか、鋭さが無く少々物足りない。年とともに円満になったせいか。
油蟬ばっか弟三回忌
しっぽまで赤くて人参身がもたん
シロサイの影はクロサイ十三夜
稔典俳句の明るさの中に見える暗さ、つまりハレ(晴)とケ(褻)は健在である。
「言葉の技を楽しむ」 正木ゆう子
選考会には『高天』『海山』を推すつもりで臨んだ。 意見交換の後、最終候補に残ったのは『万の枝』と『高天』だったので、ここでは『高天』『海山』『万の枝』の三作品について感想を述べたい。
『高天』は、一読して百句ほど感銘句を書き抜き、再読してさらに数多書き抜き、三読目にも惹かれる句が尽きないという句集であった。何度読んでも楽しめるということは、佳句・立句だけでなく、それ以外の地の句がおもしろいということだ。面白いというと語弊があるが、おもしろ可笑しいのではなく、言葉の技が読者を楽しませる。たとえば次の句。
おほよそに摘み来て蓬選り分くる
詠み尽くされた内容でありながら、さりげなく上手い上五によって、他の草も混じる摘みたての蓬の手触りが新鮮によみがえる。
今日来よと今来よといふ牡丹かな
昨夜の雨こぼして蕗を折つてゆく
水を替へ水を替へても泥蜆
なども同様で、自然詠にすんなりと人の気配が入り込むのも、三村さんの特徴かもしれない。
宇多喜代子さんが「三村さんの船場言葉は本物よ」と仰ったことがあるが、上方の奥深さがこの集に厚みをもたらしてもいるだろう。「ホトトギス」に学んだことと相まって、次のような句の格調はさすがである。
一の滝高く二の滝広くあり
貝寄風や住吉に海遠くなり
紅白をいづれも極め初牡丹
三光を蔵して枝垂桜かな
さらに次のごとき艶ある句も一集のスパイス。
何となく夜のプールといふ蠱惑
袋角隠しどころの如くあり
選考では端正に過ぎるのではという意見もあったが、私はそうは思わない。端正の後ろには混沌が透けて見える。これだけの安定感を得て後の破格は、七十代に入った作者の見せ場となりそうだ。
『海山』の谷口さんも関西の人。京都に生まれ、熊野を俳句の源泉としている。『海山』からも私は大いに句を書き抜き、読むたびに好きな句が増えた。私のベスト5を選ぶならば、
母に呼ばれてぶらんこをねぢり捨つ
蜈蚣打ちすゑ人生にへこたれる
くれあきの窮鳥のこゑかとおもふ
ゆりおこすやうに摘みたる蕗のたう
猟犬と旅の女のすでに親し
この句集も地の句が面白く、重い句・軽い句、人を食った句、俳諧味、口語も生き、具体的で実にバラエティーに富む。
せつせつと後の彼岸の扱葉搔く
もとあらの萩分け逝きし子をさがす
鯨骨の流れ着きたる涅槃かな
滝壺の芥にまぎれ落し角
鋳つぶせり撃ちたる猪の弾抜いて
などは、具体的ゆえに、類想が無い。
『万の枝』の石田さんは石田郷子ラインという言葉が生まれるほど、その年代の女性の代表格であり、抑制された濃やかな詠風に定評があった。しかしこの句集では、濃やかさはそのままに、抑制が解かれたように、大胆な句、飛躍のある句が増えて、驚かされた。
板敷に寝ぬればまはり出す銀河
鳩吹けばさすらふ熊も耳立てて
幾万の蝌蚪に歯があり恐ろしき
戦ぎをるものの一つが蛇の舌
大胆な印象は、表現の単純化にも因る。
一点の曇りもなくて唐辛子
たけなはの秋の祭を背にす
さりげない佳句も多く、
人払ひして搗きあげし餅とほす
遅き日のふと立ち壁の絵をはづす
そして自在さ。
邂逅の君踏むなそこ鹿の糞
リラの雨それでも八九人は来て
豊かな自然に囲まれた生活から生まれる句群は確かで、新鮮であり、句材は無尽蔵。次の句集への期待を、選考委員の誰もが口にした。
触れなかった多くの句集も含め、一年を通して読む喜びを戴いたそれぞれの句集に、敬意を表します。