平畑静塔
「俺はもらはなかつた賞だが、静塔は長生きしたお蔭でうまいことをした。とにかく貰ふものは貰つておくがいい。生きて居れば賞金を何とかこちらに廻してもらふのだが、とにかくおめでとう。」と、地下の三鬼が、呟いてゐることであらう。多佳子は「暮石さんと並んで授賞なんて、日吉館メンバーの誇りみたいで私も嬉しいことだわ。誓子先生もお喜びでせう。私ももう一度生きかへつて、あひにゆきたくなつたわ。」と喜んでいるであらう。
私の俳句先輩は、野風呂・秋櫻子・誓子・虛子の四人、同輩で影響をうけたのは藤後左右・西東三鬼の二人である。そのうち、ちやうど半数の三人はもう現世の人ではない。
鷹羽狩行が、私のことを大器晩成とほめてくれたが、六十余歳で賞をもらふのだからたしかに晩成だが、本当は早熟早成が羨しくて仕方がないのである。
考へてみれば、私は、精神科医と定型詩の二道をかけて進んで来たわけであるが、こんなことでどうして後世に残る一句などできるはずがなく、それこそ棺を覆へば雲散霧消し去る作品を成しているだけではないかとさへ思ひわずらふことである。
しかし今更わが道を変へることも出来ないので、これがわが定めの道とあきらめて、医俳二道を命の許す限りつづけてゆくより他はない。そのためにも、医は俳につながり、俳は医を助ける、二道たがひに交りながら妨げずに、日々を努めてゆく他はない。
深夜まで置酒交歓することもなく、集まりがあつても大抵は欠席してしまふ私のことを許してもらひたい。実のところ私もいささか疲労して、どこかでひつそり欠伸をしながら無為に時をすごしたくて仕方がない時もあるのだが、生きている限り、この働き蜂はその習性を変へることはあるまい。おそらくこれから私の俳句が少しでも変はつてゆくとすれば、この働き蜂の習性である貪慾が喜望になつたときであらう。果して何年生きられるのか知らない。いつたい汝はいつまで生きてゆくのかと自分で自分に問ひたくなるくらいである。ああ「二百年の青春」と草田男さんは切実なことを言ったものであることよ。