蛇笏賞・迢空賞

第60回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2026.6.22更新
    第60回「蛇笏賞」受賞作発表
  • 2026.6.22更新
    第60回「迢空賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第60回蛇笏賞受賞
『山猫座』(ふらんす堂刊)
大木あまり
ふらんす堂
【受賞者略歴】
大木あまり(おおき あまり)
1941年6月、東京目白に生まれる。1965年、武蔵野美術大学洋画科卒業。1971年、「河」入会。角川源義の指導を受く。2008年、「星の木」同人となる。2011年、句集『星涼』で第62回読売文学賞受賞。句集に『山の夢』『火のいろに』『雲の塔』『火球』『星涼』『遊星』『山猫座』『セレクション俳人 大木あまり集』『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 大木あまり』など

受賞のことば

「時の流れのなかで」 大木あまり

 「第六十回蛇笏賞」受賞の知らせを受けた時、喜びと共に角川源義先生のことを思い浮かべた。
  私の母が会員だった、角川先生主宰の結社「河」では、句会が終わると先生を囲み皆でお酒を飲むのが恒例となっていた。ある夜、母に呼ばれて行くと、角川先生がいきなり「君、俳句をやってみないかね」とおっしゃった。当惑する私に先生は、「俳句をやったら、君の絵の世界が拡がると思うよ」。美大を卒業後、働きながら絵を描いていた私は、先生の説得力ある勧誘に、思わず「やります」と即答してしまったのである。  一九七一年の夏、「河」に入会し、角川源義に師事した。が、俳句は手強かった。意味不明な句を作り、時には暴走する私に、「あまりは、比喩の句が多い。そればかり作っていると句が痩せてしまう。物をよく観察して写生句を作りなさい」。先生は辛抱強く指導して下さった。やっと本格的に俳句と向き合う決心をした時、先生は逝去された。葬儀の手伝いなどで気が張っていたせいか、悲しみはずっと後からやってきた。
  あれから、ずいぶん時は流れ、私にもいろいろな事があった。だが、先生の「あまり、継続は力なりだよ」という言葉を支えに俳句を作ってきた。
  このたびの蛇笏賞受賞を、角川先生も喜んで下さっていると思う。そして最後になりましたが、選考委員の皆様に心よりお礼申し上げます。

選評(敬称略/50音順)

「美しき天然」高橋睦郎

 今回の蛇笏賞は第六十回、人間に当て嵌めれば六十歳、還暦に当たる。この記念すべき年の最終的選考対象になったのは五冊、大木あまり『山猫座』、西村和子『素秋』、片山由美子『水柿』、対馬康子『百人』、高山れおな『百題稽古』、それぞれに力作の競走の感あり、中では大木あまり『山猫座』が一馬身抜きん出た印象を持った。

  大木あまりについては第五句集『星涼』の読売文学賞受賞祝賀会の折の姉君の思い出話が忘れられない。二〇一一年のことだから、それから早十五年経過。姉君の思い出話は私の記憶に誤りがなければ、概略以下の通り。あまりが小学校低学年の頃、ある嵐の日、登校のため家を出ると、玄関前の溝川に子猫が流れてきた。あまりはたまたま玄関にあった大網を持って子猫を救出。その後も流れてくるかもしれないと、登校を止めて一日流れを見つめて立っていた。その日だけでなく、以後嵐の日には必ず学校を欠席、網を片手に流れを見つめていた、という。

 その後、子猫の流れてくることはついぞ無かったそうだが、聞いていてそれこそがあまりの句作態度だと、納得させられるものがあった。子猫こそ掬いあげなかったが、後年俳句に出会ってからは感受性の網を持ってつぎつぎに掬いあげて佳句、名句を増やしていったのが、あまりの句作の来歴ではなかろうか。

 そんなあまりのありようにふさわしい形容があるとしたら天然ではないか。天然にボケが加わるといささかネガティヴに聞こえるかもしれないが、事実はそうではあるまい。漫才でボケといえばツッコミが付きものだが、ボケが無ければツッコミはない。まずボケがあり、ツッコミが続く。ボケの存在理由はツッコミよりはるかに大きい。俳句に転じてもツッコミ型はいくらもいるが、ボケ型は極めて稀。ボケは天然天与のもの、天然ツッコミはありえないのだ。今回の句集にもあまりの天然ぶりは健在だ。

  大木家の祖は狼ぞ去年今年
  階段を疾風のごとく嫁が君
  蘭鋳は妊婦のかたちして華麗
  峰雲や離れ家のごとしんとして
  蝶のごと使ふストローソーダ水
  野分して仏どぢやうは鍋の中
  姫よりも武者の香るや菊人形
  風入や聖書と並ぶ悪の華
  毒のある蛙うるはし夏休
  鎌倉の水羊羹と無常観
  歌よみの山へ老鶯帰りけり
  岸壁の木のゆさゆさと秋燕忌
  呼び鈴も核のボタンもあり真冬
  仙人掌の夜は奇声をあげさうな
  ハンカチで人殺せます遠花火
  寒風や発火しさうな猿の尻
  昆布かな幽霊火にも似て揺れて
  前略友よ鶯も吾も老いました
  立ち泳ぎするかに揚羽飛ぶことよ
  しぼりだす絵の具の赤や終戦日
  恐竜の小さき肛門冬菫
  冬の鵙地球も惑ふ星なるよ
  初夢や父母と行く草千里
  鯨くるごとく虚子忌の来たりけり
  近づけば美し離れば怖き桜かな
  蛸足の配線と春惜しみけり

 病身との付き合いかたも深刻になりすぎず軽すぎず、天然そのもの。

  病身にシャネル一滴寝正月
  春霰やこのポリープの出しやばりめ
  船室のやうな病室鳥帰る
  秋ともし一病が吾の羅針盤
  惜しみなく病めよ生きよと花吹雪

 その天然ぶりは師角川源義が晩年の愛弟子としてのあまりを大切にした理由の第一だったのではないか。その師が創設した蛇笏賞を弟子中初めて六十回の節目の年に受ける。弟子としてこれに勝る供養はあるまい。選考委員のひとりとして私は作者の天然に「美しき」という形容詞を献じたい。「美しき天然」、田中穂積作曲・武島羽衣作詞の往年の国民的愛唱歌の題名からの借用だが、あまりの俳句が羽衣の詞章の陳腐から最も遠いこと言うまでもない。


「俳句という詩形の恩寵」中村和弘 

 第六十回蛇笏賞の最終候補に、大木あまり句集『山猫座』、片山由美子句集『水柿』、高山れおな句集『百題稽古』、対馬康子句集『百人』、西村和子句集『素秋』があがった。昨年発行された数多の句集を読んだ中で、自分が選んだ五冊とぴたりと重なった。私にとって、蛇笏賞候補に上るべくして上ったという印象の五冊である。ただ、なにか見落としていないかという思いもあった。蛇笏賞・迢空賞に先んじて、毎年詩歌文学館賞の発表がある。今年の短歌部門で百歳の春日真木子さんの『宇宙卵』(角川書店刊)に決まったというニュースが入った。基本的に賞に年齢はないが、若いから新鮮なのではない。私にはこの受賞がまことに新鮮であった。近年俳人も八十歳代から九十歳代の作品が充実しているように思う。目配りを怠らずである。

 今回の候補作五冊のうち、私が躊躇なく推したのは、大木あまり句集『山猫座』である。
  河鹿鳴く星の出ぬ夜はことさらに
  波立ちて藻のいろかはる厄日かな
等の実に過剰なほどの繊細かつ鋭敏な感覚。

  夏深し草間彌生の目ん玉も
  冷まじくアトムの握り拳かな
  清少納言きつと嫌ひや土用灸
等の人名、キャラクターを用いた句。

  いくつもの美田が消えて魂迎
  日に並べ軍靴にあをき黴の花
等のかなり社会性を帯びた句。さらに、

  仙人掌の夜は奇声をあげさうな

異様とも思える感覚の鋭さ。

   帰らざる旅をするなら狼と
  冬うららうららというて死にたしよ
等の「暗さを感じさせない死」ともいうべき句。そして

  鎌倉の水羊羹と無常観
 〈無常〉というと、小林秀雄の名著『無常という事』を思い起こす。小林秀雄は論理であるが、大木あまりのこの句は直感・具象である。俳句という詩形の力、そして恩寵をあらためて感じさせられた。

 次に推したのは西村和子句集『素秋』。古典文学の素養をベースに自然、死者との対話、豊かな世界が現出する昨年の秀句集。

  大海は珠を孕めり養花天
  田植済むみちの奥まで水の国
  源流はかの秋雲の凝るあたり
等の自然を大きく詠んだ句。そして

  沖縄忌訪ふは問はるることなりき
  秋の声とはことごとくかの世なり
鎮魂とは自身を問うこと。心うたれた句。

 片山由美子句集『水柿』。「最も大切なのは俳句の格調」と帯文にあり。そのように佳き句集と思う。俳壇的役割を負い多忙な中の実力。   川幅を誇るごとくに水涸るる

  羽子板の裏絵にも負け庭の松
  焚き上げの雛のたちまち燠となり
  映るもの映さぬまでに水澄めり
等の句の気品、格調に惹かれた。が、その意図が時に作品を小さくしているようにも。

 対馬康子句集『百人』。冒険的試みも含めての力作である。

  白き花摘む台風の眼の真中
  驟雨来るアジア疾走オートバイ
  狐火も入れてみやこの七味売
  群衆の孵化の始まる蟬しぐれ
  一峡の墓標をなせり秋の滝

 現実、想像をとり混ぜ、ときに破綻もかえりみずの作句に私も同感する。が、取り合わせに無理があり、自然さを欠いた作品も多い。更なる成長、大成に期待する。

 高山れおな句集『百題稽古』。試みとして読むと面白く興味深い句集である。 

  梅の闇アメーバ状に我を愛す
  鼠舞の女見えたり夕霰
  狂ほしくいま有明の花や鳥
  千代の春知る石筍が不気味なり
等、句として惹かれる。が、わざわざ題を上につける意味があるか。若い頃からその資質に注目。さてどうなるか。


「五趣五様の面白さ」高野ムツオ

 選考は例年のように候補句集についてそれぞれが評価と感想を述べた上、受賞候補作品を慎重に絞っていった。結果、大木あまりの『山猫座』が全委員から高い評価を得た。西村和子の『素秋』を推す声もあり二作受賞も検討した。だが、やはり原則に従い、大木あまりの『山猫座』の受賞が決まった。白熱した議論にまで及ぶことがなかったのは少し残念だったが、全員の意見がスムーズにまとまった選考だった。

 句集『山猫座』は大木あまりの第七句集。コロナ禍など時代の閉塞感と宿痾に耐えながらも、死生を見つめる眼差しがいっそう深化した一集。この世の事象の、はかなげで愛しい姿が、時に鑿で抉るように、時に羽で掬うように、持ち前の大胆な発想と表現によって展開されている。

  かなぶんや切なきまでにもの書いて
  冬うららうららというて死にたしよ
  夢の世にただゐるだけや着ぶくれて
などには老いと病いを凝視する必死の詩心が燃えている。

  鎌倉の水羊羹と無常観
  炎より人恐ろしと雪女
  ハンカチで人殺せます遠花火

年齢を重ね、より自在化した境地から発信される、瑞々しく跳梁する言葉の世界に心から敬意を表したい。

 片山由美子の『水柿』も第七句集。一語一語の表現に錬磨修練を重ねた一集。端正な表現ながらも躍動感を内に秘めた句に惹かれた。

  凍らざるものなき国や月も日も
  木も草も夢を見むとて枯れゆくか
  物の芽の地を蹴るごとく出でにけり
 一句目は北欧詠だが、海外詠の範疇を超えている。自然事象のありようが詩心と一体となって表現されている句に惹かれたが、古典情趣ともっと対決してもよいか。完成と未完、破壊と構築は鏡の表裏だろう。

  峯雲の育つと見せて崩れたる
などの冷徹な観照は氏の本領とするところだ。

 高山れおなの『百題稽古』は第五句集。題詠という古来の詠法を駆使しながら、新しい俳句の鉱脈を探ろうという野心と遊び心に満ちた一冊。アウトローではない。古典と競い立つ俳句伝統を踏まえている。蒙昧な私に本集の魅力の深層に迫る力はないが、

  万物の中の少女が米こぼす
  恋の腸沸けるが勝ちぞ夕蛙
などは十分堪能できる。前句は雑で後句は春の題詠。

  貌いくつありて聳ゆる雲の峰
  地獄の機械ぶるぶる熱帯夜
など、奇想だが季語の可能性の不尽を教わる。『稽古』に先にどんな花が待つか、もっとも楽しみな一人。

 対馬康子の『百人』は第五句集。父母の死、師の死、自身の病い、それに海外も含め、往還の多い日々を果敢に掬いとった作品に満ちている。

  焼きいものどこか古城のような味
  猪食うや有無を言わせぬ山の闇
  いくたびも世に新しき雪の降る
  かなかなや夢にからだを置き忘れ

など、作者の志向からは本筋でないかもしれないが、どこか懐かしさを伴いながら命のありようを訴えかけてきて魅力的。ただし、全体に意欲がやや空回り気味。多忙な生活がつい言葉に負担を強いてしまったのではないか。句業結実は無論これから。次句集に期待したい。

 西村和子の『素秋』は第九句集。コロナウイルス禍の日常を主に詠ったものが主調音となっている。源氏物語など平安期の文学を基調に今を生きる女性のありようを詠うスタンスは変わらないが、なかなかに男性的。万葉ぶりも大いに咀嚼している。

  大海は珠を孕めり養花天
  ひきがへる内なる闇をひきかむり
  火の山の地鳴りに応へはたた神
などスケールが大きく、記紀以前まで遡る原初感覚がみなぎる。

  年あらた年重ねざる遺影にも
  火を起こし水音覚まし大旦
  螢火や生者に見ゆるものわづか
など生死を見つめる深度も増している。


「山猫的俳諧」正木ゆう子

 大木あまりの『山猫座』と、西村和子の『素秋』のどちらか、と思いつつ選考に臨み、開始まもなくこの二冊が最終候補となった。

 『山猫座』は、定評のある発想の豊かさ、題材の幅広さとともに、取り合わせや季語の斡旋が独特で、今回も華やかな世界が展開されている。

  色足袋をぱんと叩いてみんな夢
  鎌倉の水羊羹と無常観
  夕風が吹く石段のかたつむり
  居らざるがごとく居りたし龍の玉
  描きたきは光の柳影の馬
 どの句を取っても、季語の生かし方が似ていない。そのために、それぞれの文体が多様で、主題と季語との距離の取り方や、一句の世界の広がり方が全く違う。自由自在。それでいてどの句にも一貫して山猫的俳諧味が満ちている。高橋選考委員が「山猫なんです。家猫ではないのです」と仰っていた通り、何にも縛られない心の七色が俳句形式によって捉えられている。

  月いろのラストオーダーの浅漬
  天使にも悪魔にも編む毛糸帽
  カンツォーネ歌ひさうなる寒卵
  まだ足が上がる黄色の蝶が来る
 これらの遊び心溢れる、どちらかといえば軽い句も作者の希有な持ち味の一面で、俳句とはこんなに自由でよい詩形なのであった。

 『素秋』は、『山猫座』とは別の意味で、自由自在な句集である。それは韻文性が完全に身についている人にしか到達できない自由、という意味で。

  大海は珠を孕めり養花天
  利休梅腹帯ここに賜りし
  屠蘇注ぐや顔立ちやがて面構へ
 韻律の確かさが一句に格調をもたらし、これぞ俳句という貫禄。それでいて収まり返るような硬さが無いのは、形式が着慣れた衣服のように身に添って、二枚目の皮膚のように神経が行き届いているからだろう。

  落葉搔く音のみ谷戸を下り来る
  枝豆を色よく茹でて一人とは
などに見られる孤心もまた、深く豊かな印象。

  駒返る草やくるぶしふくらはぎ
  見付けたり避暑の極みの粗衣粗食
  買初の一帖二管三十葉
 言葉の技に遊ぶこれらの句は、年季の入った味わいに満ち、言葉の軽くなった時代における俳句の可能性を再認識させる。

 片山由美子の『水柿』は、濃やかな目や感覚が平明な言葉に乗った端正な一集。

  たのもしき音となりたる夕立かな
  散ればあきらかにむらさき花楝
  きんいろのうつすらと差す新茶かな
 どの句も、誰もが見たり経験したりする事柄が、実にうまく俳句的に転換されており、詠み尽くされた題材であろうと、一ミリでも新しく上書きしようとする意思が感じられる。また別の新しさへの冒険として、
  白象の歩めば軋む夏の闇
を挙げておきたい。俳句が身に添った今こそ、さらなる冒険が可能なのではないだろうか。

 『百人』の対馬康子の特長は、虚実を行き来する自在さにある。今回はそれに〈実〉も加わって、

  焼きいものどこか古城のような味
  差羽二羽しずくのように裏返り
  ビル街の窓や全裸のごとく夏
  淡雪や陸が近づくように夜
など、比喩に虚への飛躍がありながら、しっかり実へと着地した作が新鮮。しかし虚に傾き過ぎて、読み手がうまく受け止めきれない作も多く、惜しまれる。

 今回の五作中、一人だけ若い高山れおなの『百題稽古』は、題詠の試みとして貴重。

  命とは白シャツに透く君なりき
  身に夢と血と満ちて寄る夕桜
 これら恋句や青春性の鮮やかさは、題詠ならではのものだろう。題の縛りを超えて鑑賞したい佳句も多く、

  御代の春ぐるりの闇が歯を鳴らし
  鹿首の瞠れる黴の館かな
  セーターの焦穴は魂抜けし痕
など非凡。しかし題詠ゆえに読者の自由な読みを許さない一面があり、蛇笏賞としては特殊過ぎたかと思う。


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